2014.10.19

「わたしは ここにいる、ここにいる」

イザヤ書65:1 ヨハネによる福音書21:1〜14

櫻井重宣

 
 本日は秋の伝道礼拝としてみなさんと御一緒に礼拝をささげることができ、感謝しています。本日は、今お読み頂いたヨハネによる福音書21章を通して、イエスさまはどういう方なのか、イエスさまはわたしたちにどのような関わりをされる方なのかということに耳を傾けたいと願っています。
 今年もまもなくクリスマスを迎えますが、イエスさまは、およそ二千年前、ユダヤの国でお生まれになりました。30歳のときから3年間ユダヤの国の辺境の地と言われるガリラヤ 地方で伝道し、また多くの病気の人をいやし、苦しむ人を力づけ、悲しむ人を慰められました。3年後、イエスさまはエルサレムで十字架に架けられ殺され、三日目によみがえられまし た。
 先程、ヨハネによる福音書21章を読んで頂きましたが、そこには、十字架の死を遂げたイエスさまがよみがえられて2週間位後の弟子たちのことが記されていました。
 冒頭に、ティベリアス湖畔とありますが、ガリラヤ湖のことです。イエスさまが十字架に架けられたのはエルサレムでしたが、まもなく弟子たちは3年間イエスさまと歩みを共に したガリラヤに戻ってきました。イエスさまには12人の弟子がいましたが、今日の箇所に登場するのは7人です。
 ガリラヤに戻ってきたシモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」といったところ、わたしも、わたしもと言って他の6人も舟に乗り込みました。けれども、一晩中漁をしたのです が、その夜は何もとれませんでした
 すなわち、十字架の死を遂げられ、よみがえられたイエスさまにお会いして、深い感動を覚えてあまり日がたっていない弟子たちが、漁に出て、一晩中労したのですが、魚が一匹 もとれないという空しい現実に直面したのです。

 一晩中漁をして何もとれなかった7人の弟子、一人一人のことに最初に思いを深めたいと思います。
 まず、シモン・ペトロです。イエスさまの筆頭弟子のような存在です。ペトロはイエスさまにお会いする前、漁師でした。ペトロは、3年間イエスさまと行動を共にしましたが、 最後の晩餐のとき、イエスさまから、あなたは大きな試練に直面する、と言われました。そのとき、ペトロは、イエスさまと一緒なら、逮捕されて牢に入っても、死んでもよいと覚悟し ています、と言ったのです。そうしますと、イエスさまは、あなたは今日鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないというだろう、けれども、わたしはそういうあなたを見捨てない、見捨 てないどころか、あなたのために祈っている、あなたは必ず立ち直ることできる、立ち直ってほしい、あなたが立ち直ったら、同じような弱さを持っている人たちを力づけてやって欲し い、とおっしゃったのです。最後の晩餐のあと、イエスさまはゲッセマネの園に赴かれ、血の滴るような汗を流して祈られ、祈り終えたとき、逮捕されました。逮捕された時点で、他の 弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げてしまったのですが、逮捕されても一緒に参りますと言ったペトロはイエスさまの裁判の成り行きを見ようとしてついて行きました。裁判は大 祭司のところで行われていました。裁判の成り行きを見ていた人々が大祭司の屋敷の中庭でたき火をしていたとき、ペトロも一緒に火にあたっていました。そうしますと、大祭司のとこ ろで働いている女の人がペトロの顔をじっと見て、「この人もイエスと一緒にいた」と言いだしました。そのとき、ペトロはとっさに「わたしはあの男を知らない」と言ってしまいまし た。しばらくして、ほかの人が 「あなたも、あの人の弟子の一人ではないか」と言いますと、ペトロはまた「いや、そうではない」と言いました。一時間ほどして、別の人が「確かにこ の人も一緒だった」と言いますと、ペトロは「あなたの言うことは分からない」と言ってしまいました。イエスさまがおっしゃっていたようにイエスさまを三度知らないと言ってしまった のです。そのとき、突然、鶏が鳴いたのです。鶏が鳴いたとき、イエスさまは振り向いてペトロを見つめられました。ペトロは、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないだろうと言われたイ エスさまの言葉を思い出すと同時に、イエスさまは自分が立ち直れるよう祈ってくださっている、もっというなら、わたしの立ち直りのためにこれから十字架に架かろうとしておられる、そのことを覚え、激しく泣いたのです。 

 ディディモと呼ばれるトマスは、イエスさまがよみがえられた日の夕方、ですから日曜日の夕方、弟子たちのところに来られたとき、その場にいませんでした。イエスさまにお会いし た弟子が「わたしたちはイエスさまにお会いした」とトマスに言ったところ、トマスは「わたしはイエスさまの手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をイエ スさまのわき腹に入れてみなければ決して信じない」と言いました。一週間後の日曜日、よみがえられたイエスさまが再び弟子たちのところに来られたとき、こんどはトマスもいました。イエスさまは、トマスにわたしの手をみなさい、あなたの指をわたしの手にある釘跡に入れていい、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れていい、とおっしゃって、よみがえりを疑ったトマスを招かれました。イエスさまは、うたがったトマスにだめじゃないかとおっしゃるのではなく、十字架の傷跡にふれていい、とトマスを招いておられます。
 わたしたちは、トマスをうたがい深い人と思いがちですが、彫刻家でもあり、詩人の高村光太郎は「触知」という詩で、トマスへの思いを語っています。
 「或男はイエスの懐に手を入れて 二つの創痕を撫でてみた。一人のかたくなな彫刻家は 万象をおのれ自身の指で触ってみる。水を裂いて中をのぞき 天を割って入り込もうと する。ほんとに君をつかまえてから はじめて君を君だと思う。」 
 高村光太郎は彫刻家として、トマスに親近感を覚えています。

 ガリラヤのカナ出身のナタナエルは、イエスさまが神さまのご用を初めてまもなく弟子になった人で、イエスさまにお会いしたとき、イエスさまからあなたはわたしのよみがえりの証 人になると言われた人です。また、「ゼベダイの子たち」というのはヤコブとヨハネです。やはり漁師でした。このゼベダイの子たち、ヤコブとヨハネはイエスさまがまもなく十字架に というとき、イエスさまにお願いに行きました。どういう願いかといいますと、イエスさまが王さまになったとき、自分たちをイエスさまの右、左に座らせてください、すなわち、12人 の弟子の中で自分たちを1番、2番にしてください、と願い出たのです。この二人はイエスさまが十字架に架けられたことを知って、仕えられるためではなく、仕えることの大切さを知 ったのです。12人の弟子の中で、最初に殉教したのはヤコブです。
 あと二人は名前が記されていないのでわかりませんが、いずれこの7人が漁に出たのです。

 このように、この7人の弟子に共通することは、イエスさまの十字架の前に立ったとき、よみがえられたイエスさまに招かれたとき、深く心を動かされた人たちです。体全体で、心の深 いところで感動し、立ち直った人たちです。けれども、立ち直った7人が漁にでて、その夜は何もとれないという空しさに直面しているのです。
 この出来事は、わたしたちの現実と重なります。ここ数年自然災害がいたるところで発生しています。今年も広島で土砂災害のため70人を超える方が亡くなり、先日は御嶽山の火 山 爆発で50人を超える方が亡くなりました。亡くなった方々の思い、ご家族の方々の思いはいかばかりかと思うと心が痛みます。また皆さんの中には、身近な方、愛する家族の死に直面し 涙の渇かぬ日をすごしている方もおられるかと思います。わたし自身、両親の介護を最後までしてくれた一歳上の姉が、半年前に亡くなりました。
 また、教会生活をおくっておられる方は、日曜日の礼拝で、復活のイエスさまにお会いします。そして、職場に、学び舎に、家庭に赴くのですが、数日もたたないうちに、何も獲 れない現実に直面することがあります。

   ギリシャ神話に「シジフォスの受けた罰」という話しがあります。人間の中で最も賢い人であると言われたシジフォスが、あることで、ギリシャの神ゼウスの怒りをかい、地獄に投げ 込まれました。そして地獄で与えられた罰は重い石を山の上まで持ち上げることです。シジフォスは一生懸命に石を持ち上げ、ようやく山の上まで持ち上げると、石はふもとまで落とさ れます。またやりなおしです。もう一度持ち上げるとまた落とされます。なんども何度も繰り返すことを命じられるのです。
 この神話をもとに、『ペスト』とか『異邦人』という小説を書いたフランスのカミユは『シジフォスの神話』というエッセーを書いています。そして、このシジフォスが受けた苦 しみは、不条理の苦しみだ、そしてこれは現代人が直面している苦しみだというのです。一生懸命生きても、むなしさが残る、一生懸命努力してもその努力が報われない、シジフォスの 苦しみは現代を生きる人間の苦悩だというのです。
 ですから、十字架のイエスさま、よみがえられたイエスさまにお会いした弟子たちが、あまり日がたたないのに、こうした空しい現実に直面しているというのはまさにわたしたち の姿でもあるのです。

 けれども、4節に「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」
 「既に」という言葉がここには「夜が明けたころ」にかけられていますが、夜が明けたころ、イエスさまが既に岸に立っておられた、とも訳せます。ガリラヤ湖で一晩中労苦し、 魚が一匹もとれなかったという現実の中に弟子たちがいるとき、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエスさまは岸辺にすでに立っておられたというのです。空しい現実のただ中にイエ スさまがすでにおられるというのです。彼らを包みこむようにしてイエスさまが既に岸辺に立っておられるのです。
 イエスさまに従ったので苦しみがない、挫折しないというのではなく、どんなに挫折しても、苦しみに直面することがあっても、そのところにイエスさまがおられる、それが聖書 の語ることです。

 聖書を読み進みますと、イエスさまが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えまし。そうしますと、イエスさまは「舟の右側に網を打ち なさい。そうすればとれるはずだ。」とおっしゃいました。一晩中漁をして魚一匹とれなかったのに、イエスさまはもう一度網を打ちなさい、もう一度やってごらんとおっしゃるのです。
 弟子たちが、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができないほどでした。イエスさまの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言いました。
 「主だ」というのは、ここにイエスさまがおられる、ここにイエスさまがおられる、ということです。

 先程読んで頂いたイザヤに書で、預言者イザヤがこう語っていました。
 わたしに尋ねようとしない者にも 
 わたしは、尋ね出される者となり
 わたしを求めようとしない者にも 
 見出される者となった。
 わたしの名を呼ばない民にも 
 わたしはここにいる、ここにいると言った。

 イザヤはイエスさまのお生まれになる500年位前の預言者ですが、神さまがいつの日かわたしたちの世界におくってくださる救い主は、尋ねようとしない者にも、求めようとしない者に も、だれにも見いだされる、それだけではなく、救い主の方で、わたしはここにいる、ここにいるとおっしゃる、それほど、身近におられる方だ、と預言したのです。そして、イエスさ まはまさにそういう方だったのです。

 第二次大戦下、ヒットラーに抵抗したため、絞首刑になったボンヘッファーという牧師はこういうことを語っています。
 「われわれは挫折する。その時にこそ、神は信じがたいほど近くいます時であり、絶対に遠く離れたもう時ではない」
 挫折したとき、試練のとき、神さまは近くにおられる、共におられる、ひとりぼっちにしない、信じがたいほど近くにおられるというのです。

 このあと、シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだこと、ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来たこと、陸に上が ってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもあったこと、イエスさまが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われ、網を陸に引き上げると、百五十三匹 もの大きな魚でいっぱいであったのに。網は破れていなかったこと、そしてイエスさまと一緒に朝の食事をしたことが記されていました。

 聖書の語ることは、この7人の弟子にみられるように何度も失敗しても、挫折しても、イエスさまは弟子をあきらめません。挫折した人たち、空しさを覚えている人たちのすぐそばに おられ、もう一度、もう一度やり直してごらんとおっしゃるのです。そして、イエスさまがここにおられた、イエスさまはわたしを見放さなかったことを、そのたびごとに思い起こさせ てくださるのです。
 先程の、シジフォスのことでいうなら、ようやく持ち上げた大きな石を落とされ、途方に暮れているシジフォスに、わたしも一緒に持ち上げるので、もう一度やり直そうとおっし ゃるのがイエスさまなのです。

 最後にこのことで感銘を受けているお二人のことを語らせて頂きます。
 お一人は小説家の遠藤周作さんです。遠藤さんに『イエスの生涯』という作品があります。その作品にこういう一節があります。 
 「彼はただ他の人間たちが苦しんでいるとき、それは決して見捨てなかっただけだ。女たちが泣いていた時、そのそばにいた。老人が孤独の時、彼の傍らにじっと腰かけていた。 奇蹟など行わなかったが、奇蹟よりももっと深い愛がそのくぼんだ眼に溢れていた。そして自分を見捨てた者、自分を裏切った者に、恨みの言葉ひとつ口にしなかった。にもかかわらず、 彼は『悲しみの人』であり、自分たちの救いだけを祈ってくれた。」

もう一人は、ジョルジュ・ルオーという画家です。東京駅の八重洲口にあるブリジストン美術館に、ルオーの「郊外のキリスト」という絵があります。夕暮れの郊外です。子どもたち が二人描かれています。そのそばにイエスさまが描かれています。夕暮れになって不安を覚えている子どもたちにイエスさまが優しく語りかけています。お家まで一緒に連れて行ってあ げるよ、と。        
 ルオーは晩年、『聖書の風景』とか『晩秋』という題で同じような構図の絵を描いています。秋の夕方ですが、聖書のどの場面かわかりません。どこにでもある風景です。よく注 意して見ると、何人か描かれているうち一人はキリストと思われる人です。どの風景にも、夕べにも、郊外にも、淋しいところにも、悲しみのところにも、どこにでもキリストはおられ る、キリストは悲しむ一人一人、苦しむ一人一人のそばにおられる、それが、ルオーの信仰です。

 ここにいる、ここにいるとおっしゃるイエスさまに励まされて新しい世界に導かれた人を最後に紹介します。坂口 弘さんという方です。坂口さんは42年前、連合赤軍の一員として、 リンチで仲間を殺し、浅間山荘事件でも人を殺し、死刑の判決を受けた人です。どうしようもないほど心がすさんでいた坂口さんに罪を認めて欲しい、罪を認め、新たな人間になること を願ったのは、坂口さんのお母さんでした。そのお母さんを励まし続けたのが教会の人々でした。そうした方々の励ましで、祈りで坂口弘さんは歌を詠むようになりました。

 雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬

 職の名を訊けども母は答えざり人屋のわれを支える仕事

 宣告のありなん今や獄庭(にわ)見ればイヌフグリ花咲き初めにけり

 わたしはここにいる ここにいるというイエスさまに励まされ、こうした歌を詠むまでになった坂口弘さんに注がれる神さまの愛はわたしたち一人一人にも注がれているのです。        

 

(2014年10月19日 秋の伝道礼拝説教)