2014.07.06

「我らの罪をゆるしたまえ」

ネヘミヤ記1:4〜11 マタイによる福音書18:21〜35

櫻井重宣

 
 5月の第二日曜日から、「主の祈り」の祈りを一つずつ学んでいます。わたしたちは、毎週の礼拝そして水曜日の祈祷会において「主の祈り」を祈っております。そして二千年教会の歴史でも繰り返し祈られてきました。
 主の祈りは、イエスさまがこう祈りなさいとわたしたちのとなりに位置して、わたしたちの祈る手にイエスさまがご自分の手を重ねるようにして、わたしと一緒の祈ろうと教えてくださった祈りです。一つ一つの祈りへのイエスさまの思いをていねいに受けとめ、心からの思いをもって、主の祈りを祈り続けたいと願っています。 
 本日は、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく 我らの罪をもゆるしたまえ」という祈りに思いを深めます。

   わたしが神学校を卒業して最初に赴任した名古屋の御器所教会に、ご夫妻で役員をしていたSさんという方がおられました。日曜日の朝の礼拝、夕礼拝、祈祷会に、お二人で忠実に出席しておられました。この方が、信仰を持つに至ったお話しはまことに感銘深いものがありました。生物学を研究しておられた方ですが、昭和の10年前後でしょうか、日本の国が戦争への動きが加速し、大学での研究の自由がしだいに失われてきた時代にドイツに留学したそうです。その方が留学したドイツの大学の建物にこういう言葉が記されていました。
 「真理は汝らに自由を得させるであろう」。
 しばらくして、この言葉は聖書の言葉だと分かった、しかし、この言葉に納得いかなかった、日本の国に学問の自由がなかった、学問の自由が真理に導くのではないか、どうして、真理は自由をえさせるのか、と。その後、聖書を読むようになって、どんなときにも、だれに対してでも、どんなところでも真実でいますイエス・キリストがすべての縄目から自由にしてくださることが分かって洗礼を受けた、と。けれども、教会生活を続けるなかで、主の祈りの中のこの祈り、すなわち「我らに罪を犯すものを、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」がどうしても祈れない、と。自分が他者の罪を赦すので、自分の罪を赦して下さい、というと、自分が赦すことが自分の罪の赦しの条件のようになってしまう、そのことを考えると、自分はこの祈りが祈れない、自分はこの祈りのとき、口をつぐむほかない、と。イエスさまの真実に心を打たれて洗礼を受けた方だけに、自分が他者の罪を赦すので、自分の罪を赦してくださいという祈りは納得できない、そのことを訴えられたのです。本当に誠実な方で、謙遜に教会生活をおくっておられた方だけに、この方の問いは牧師になりたてのわたしの心に大きな問いとなりました。 

    あらためて、マタイによる福音書6章に記されている「主の祈り」をみますと、こう記されています。
 「わたしたちの負い目を赦してください
  わたしたちも自分に負い目のある人を
 赦しましたように」
 先ず、マタイ福音書では、罪ではなく負い目です。これは、オフェイレ―マというギリシャ語ですが、負債とも訳されます。負い目、負債は罪とは少し意味合いが違います。さらに原文の順序はこうです。

  そして、ゆるしてください、われわれに、
 諸負債を、われわれの
 そのように また われわれが ゆるした 諸負債者たちに われわれの  

 原文では、われわれの諸負債を赦してください、が先に記されています。神さま、赦してくださいが先に祈られているのです。そのあとに、そのようにまた、わたしたちもわれわれに負い目のある人々を赦します、なのです。
 大切なことは、我々の赦しに先立って、神さまの赦しが先にあることです。  
 神学校を卒業して伝道者一年目のわたしは、先程の名古屋の教会のSさんに一生けんめいそのことをお伝えしようとしたのですが、なかなか、分かっていただけなかったことを思い起こします。

 そのことをはっきり知ることができるのが、先程お読み頂いたマタイによる福音書の18章です。
 イエスさまは、この18章で、小さい者を躓かせることは本当に大きな罪だとおっしゃいます。大きなひき臼を首に架けられて深い海に沈められた方がましだ、そのくらい大きな罪だとおっしゃいます。だから小さい者をつまずかせはいけない、とおっしゃいます。
 神さまは、小さい者を守るために小さい者ひとりひとりに天使をつけておられる、天の国ではその天使たちが神さまを賛美している、天ではそれほど小さい者が大切にされている、イエスさまがこの世にこられたのは地上でも小さい者が大切にされるためだ、とおっしゃいました。
 そして、有名な百匹の羊のたとえをお話しされました。迷い出た羊がいたとき、羊飼いはどこまでも探しに行く、小さな者が滅びることは天の父の御心ではない、というのです。それとともに、イエスさまは小さいものをつまずかせた人も、その罪の大きさを自覚して悔い改めて欲しい、そのために全力を尽くすというのです。そうしたイエスさまに励まされて、小さい者を躓かせた人の罪を、教会はあいまいにしてはならない、教会はそのために真剣に祈らなければならないというのです。 
 21節以下において、ペトロは、わたしの兄弟がわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきか。7回までですか、と尋ねました。イエスさまは7回を70倍するまで。とおっしゃいました。1回、2回・・・490回と数えるのではなく徹底して赦せというのです。そして、天の国はこのようなところだ、とおっしゃってたとえ話しをされました。
 
 ある王さまが、家来たちに貸したお金の決済をしようとした。家来の一人がT万タラントン借金していたことは判明しました。1万タラントンはどういう金額でしょうか。1タラントンは、六千デナリオンです。1デナリは、一日の労働賃金です。ですから1タラントンは6千日分の労働賃金です。1年に3百日働くとすると20年分の労働賃金です。1人が一生の間、40年働くとすると、1万タラントンは5千人の人が一生、すなわち40年間働いて得るお金です。一日5千円とすると3千億円です。気が遠くなるような数字、金額です。
 この人はこれだけの借金ですので、いますぐ返済できません。主君は持ち物全部売って返済するように求めたとき、その家来ひれ伏して、どうか待ってください、きっと全部お返しします、と言いました。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、借金を帳消しにしました。憐れに思っては、スプランクナ、はらわたを揺り動かす、という語です。主君は、家来の苦しみに腸を揺り動かし、なんてつらいんだろう。と言って借金を帳消しにしたのです。
 ところが、この家来は、外に出たとき、自分に百デナリオンの借金をして仲間に出会いました。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、借金を返せと言いました。仲間はひれ伏して、どうか待ってくれ、返すから、と。けれども承知せず、仲間を引っぱっていって、牢屋に入れてしまいました。百デナリオンは百日の労働賃金です。一日、5千円とすると50万円です。
 3千億円の借金を帳消しにしてもらった人が50万円貸している人を赦さないのです。もう少しいうなら、3千億円というのは、わたしたちの神さまの前での負債は、それほど大きいということです。そうした負債を、主君である神さまは、はらわたを揺り動かして赦してくださるのです。けれども、大きな罪を、負債を赦されたわたしたちは他者の負債を赦せないのです。
 主の祈りは、イエスさまが、こう祈ろうとおっしゃって教えてくださった祈りです。とてつもない負債を持つわたしたちのため、イエスさまははらわたを揺り動かし、赦してくださいとわたしたちと一緒に神さまの前にぬかずいておられるのです。もう少しいうなら、はらわたを揺り動かすイエスさまは、十字架にお架かりになり、わたしたちの罪をゆるしてくださいと祈った方です。主の祈りは、イエスさまが一緒に祈ってくださっている祈りなのです。

   「われらの罪をゆるしたまえ」という祈りで、いくつかのことを心に留めたい、と思います。「主の祈り」は、マタイによる福音書6章に記されていますが,
 最初の三つは、あなたの名、あなたの国、あなたの御心です。「あなたの」、は「神さまの」です。後半の三つは、「わたしたちの」、「われらの」です、我らの日用の糧、我らの罪、我らの試みです。イエスさまがわたしの日用の糧を、わたしの罪を、わたしの試みを、われらの日用の糧を、われらの罪を、われらの試みとおっしゃって一緒に神さまの前に頭を垂れてくださっているのです。

   また、第四の祈り、わたしたちに必要な糧を今日あたえてください、に続く第五、第六の祈りの冒頭に、「そして」という語があります。わたしたちに必要な糧を今日与えてください、「そして」我らの負い目を赦してください、「そして」我らを誘惑に遭わせないでください、というのです。
 生活の基盤ともいうべき日用の糧、肉体の糧と同じく、赦しを必要とする、試みのなかで、悪にまけないこと必要だ、とおっしゃるのです。とくに今日の祈りでいえば、パンと赦しは切り離せないというのです。
 ときおりお話ししますが、わたしの心の旅において、岩村昇先生との出会いはとても大きいものがあります。秋田の教会で在任中にお迎え出来ました。岩村先生は、ネパールでお医者さんをしておられました。土曜日に一般の方々をお招きして講演会を行い、日曜日は礼拝でお話しをして頂きました。そして、日曜日の午後、岩村先生を囲む子どもたちの会を行いました。岩村先生は、全力でお話し下さいました。ネパールの子どもたちは、飢えに苦しんでいる。秋田の子どもたちにもできることがある、古切手を集めて欲しい、また、ネパールのお友だちのため、1日1円献金して欲しい。一ヶ月で30円になったら、それで大豆を買ってネパールに届けて欲しい。その大豆を史子夫人とスタッフが植える、収穫したらネパールの子どもたちに日用の糧をさしだすことができる、とおっしゃったのです。そのとき、岩村先生は、自分がどうしてアジアでお医者さんをしているかを子どもたちに話されました。フィリピンに行ったとき、第二次大戦で、日本人にお父さんを殺された人に出会った。日本の国は、戦争中に大きな間違いを犯した、罪を犯したことを岩村先生は、涙ながらに語られ、わたしたちの心は揺さぶられました。

 もう一つ、負い目、負債は単なる借金ではありません。第二次大戦が終わりごろ、シュトゥットガルトの教会で主の祈りを毎週説教していたティーリケ牧師は、負債は世界的な罪だとおっしゃいました。最初に読んで頂いたネヘミヤ記のネヘミヤの祈りは、
 わたしはあなたに罪を犯しました。わたしの父の家も罪を犯しました、です。  
 民の罪をわれらの罪と告白しています。
 今、わたしたちの国は、近隣諸国との関係に厳しいものがあります。歴史認識を問われています。わたしたちは、ネヘミヤのように歴史に真摯に向き合っての祈りが必要ではないかと思わされます。

 小塩節というドイツ文学者が、若い日にドイツのミュンヘンで、日曜日、夕礼拝しているところを探した。ようやく探し当てたのは、普通の家での礼拝であった。小さな家にいっぱいの人がいた。銀髪の人が説教していた。わたしたちは多くのユダヤ人をガス室に送ってしまった。わたしたちは罪を犯した、と。説教の後の祈りのとき、その銀髪の人は、「わたしたちは罪を犯した、あなたに対し、世界に対し罪を犯した、信なき我をたすけたまえ」と涙ながらに祈っていた。あとから聞くと、学生時代、ナチスに抵抗してダッハウの強制収容所に容れられた人であったという。けれども、そうしたことは何一つおっしゃらないで、自分たちの国が犯した罪を赦してください、と祈っていた。
 スイスのリュティ先生は、戦後間もなく、主の祈りの説教をしておられます。 その説教で、ヒロシマのことを「我らの罪」とおっしゃっています。 

   繰り返しになりますが、イエスさまの十字架の贖いによって、わたしたちの計算できないほどの負債が赦されたのです。そのことを心より感謝し、我らの罪をゆるしたまえ、と真摯に祈り続けたいと願うものです。          

 

(2014年7月6日 主日礼拝説教)