2014.06.08

「御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」

詩編33:8〜15 マタイによる福音書26:36〜46

櫻井重宣

 
今日は教会の誕生日ともいうべき聖霊降臨日・ペンテコステです。イエスさまがよみがえられてから50日目に、十字架を前にして弱さをさらけだした弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエスさまこそまことの救い主と告白し、教会が誕生しました。代々の教会は、ペンテコステを、イエスさまがお生まれになったことを祝うクリスマス、十字架の死を遂げたイエスさまがよみがえられたことを祝うイースターとともに三大節として、大切にしてきました。  
 私たちは日曜日の礼拝で主の祈りを学んでいます。今日は、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りを学びます。この祈りに思いを深めつつ、聖霊降臨日に込められている恵みに思いを深めたいと願っています。
 主の祈りは、あなたがたはこう祈りなさい、とイエスさまが教えてくださった祈りです。イエスさまが私たちと一緒に神さまの前に頭を垂れて、わたしたちの祈る手にイエスさまが手を重ねるようにして、こう祈ろうと教えてくださった祈りです。   

 「主の祈り」は「天にまします我らの父よ」という呼びかけに続いて六つの祈りが続きます。最初の三つ、すなわち、「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」、「み国を来らせたまえ」、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」には、いずれも「あなたの」という人称代名詞がついています。すなわち、「あなたのみ名」「あなたのみ国」「あなたのこころ」です。「あなたの」は、神さまの、ということです。   
 天と地ということで、先程耳を傾けた詩編33で、詩人は、神さまは天から見渡し、人の子らをひとりひとりごらんになる、ひとりひとりに目を留められる、ひとりひとりの業を見分けられる、天におられる神さまは、地にあるわたしたちのことをこまやかに心配りしておられる、と語っています
 そうした神さまの御心を地で行おうとされたのがイエスさまです。マタイ福音書18章でイエスさまはこういうことをおっしゃっています。 
 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」、と。
 どんな小さい者にも、その人を守る天使がいる。その天使たちはいつも天で神さまの御顔を仰いでいる、地では小さな者が軽んじられているが、天においてはこの世のどんな小さな人も大切にされている、というのです。
 そして有名なたとえをお話しされました。
 「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と。
 イエスさまは、神さまの御心は、どんなに小さな人であっても大切にされることだ、天においては大切にされているが、地では軽んじられている、わたしは天の父の御心をなすため、すなわち軽んじられている小さい者を救うために来たとおっしゃるのです。
 この一、二週間も、わたしたちは小さい者が軽んじられている出来事が相次ぎ、心が締めつけられる思いです。
 わたしたちのすぐ近くの厚木では、小さい子が親に放置され、死んでしまい、なおその死んだことを父親以外何年間も誰も知ることなく過ごしてしまった、という衝撃的な事件がありました。栃木では8年前に小学校一年生の女の子どもさんが殺されましたが、最近、その子どもさんを殺した青年が逮捕されました。幼い子どもさんの命をもてあそばれていたことにショックを覚えるともにその青年がどうしてそのようなことをしてしまったのかを思うと心痛みます。

 イエスさまは、こうした現実に心を痛め、「天におけると同じように地にもみこころを」、と祈られ、軽んじられている一人を捜しだそうとされました。
 また、ヨハネ福音書にはこういう一節があります。
 弟子たちが、先生、食事をどうぞと勧めたとき、イエスさまは、わたしにはあなたがたの知らない食べ物があるとおっしゃいました。そうしますと、弟子たちは、誰かが食べ物を持ってきたのだろうか、と互いに語りあっていますと、わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである、とおっしゃいました。
 軽んじられている小さな者を探し出すという神さまの御心を行い、その人を探し出せたとき、大きな喜びがある、心が満たされる、それにまさるごちそうはない、とおっしゃるのです。
 そして、イエスさまは十字架に架けられる前の晩、ゲッセマネの園で祈られました。ゲッセマネの園までは12弟子を連れて行き、わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい、ここで祈っていて欲しいと言い、そこからペトロ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人を奥に連れていきました。そのとき、イエスさまは悲しみもだえ始められ、三人に「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていていなさい」、とおっしゃいました。逮捕され、十字架に架けられることが避けられないと分かったとき、イエスさまは悲しみ悶え、三人の弟子たちに目を覚まして一緒に祈って欲しい、苦しみを共にして欲しいと願われたのです。
 そしてイエスさまお一人はさらに奥に行ってうつぶせになって祈られました。「父よ、できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」、と。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈りましょうとおっしゃったイエスさまは、十字架の道をあゆむことが御心かどうか、悲しみもだえつつ祈っておられます。祈って弟子たちのところに戻ってくると、弟子たちは眠っていました。イエスさまは「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」とおっしゃいました。そして今一度イエスさまは奥に行って祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と祈られました。今一度、弟子たちのところに戻ってくると、また眠っています。そこで弟子たちをそのままにして、三度目も同じ言葉で祈られました。三度祈られ、弟子たちの所に戻ったとき、イエスさまは逮捕されました。

 弟子たちに「天におけるとおなじように地にもみこころをなさせたまえ」と祈ろうとおっしゃったイエスさまは三年間「食するひまをうち忘れて しいたげられし人をたずね、友なきものの友となる」、そうした歩みをされ、最後には十字架の道を歩むことが御心と示されたのです。
 そのイエスさまが十字架の死を遂げ、三日目によみがえり、よみがえられた後、五十日目に弟子たちに聖霊が降って教会が誕生しました。聖霊降臨日は教会がスタートした日です。それでは教会のゴールはイエスさまがもう一度おいでになるとき、再臨の日、終わりの日です。天におけると同じように地に御心がなされる日です。ある聖書学者が、ペンテコステから再臨の時までが、教会の時だと言います。わたしもそう思います。わたしたちの教会も、そうした教会の時を歩んでいるわけです。

 わたしは「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」という祈りで、思い起こすことが二つあります。
 一つは69年前のドイツのシュトゥットガルトの教会でなされたこの祈りの説教です。先週、70年前、フランスのノルマンディにアメリカやイギリスなど連合国が上陸して、第二次世界大戦が、連合国側が勝利する大きな転換点となった、ということで記念の式典が行なわれました。実は、このノルマンディ作戦からしばらくしてドイツの敗北が濃厚になったとき、1945年になってからと思われますが、ドイツのシュトゥットガルトの教会の礼拝で、日曜日毎に、ティーリケ牧師が主の祈りの説教を行っていました。わたし自身この説教に感銘を受けていますので、今回の「主の祈り」の学びにおいて毎回のように紹介していますが、「み国を来らせたまえ」の説教は教会堂が焼かれてしまったので、病院の礼拝堂で行われました。そして本日、私たちが学んでいる「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」の説教は、病院の礼拝堂における礼拝でしたが、礼拝中に空襲警報が鳴り、何度か礼拝を中断せざるをえませんでした。この礼拝の後、まもなく空襲のため病院の礼拝堂も廃墟となってしまいました。病院の礼拝堂での最後の礼拝での説教が「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」でした。
 礼拝堂はすでに空襲で焼かれてしまったのですが、それでも日曜日の礼拝を守るため、病院の礼拝堂に集まって来る、そして、その日の礼拝で空襲警報が発令され、礼拝が中断される、そして礼拝が終わってまもなく空襲で病院の礼拝堂も焼けてしまう、そうした礼拝で、牧師は「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」という主の祈りを説き明かしたのです。

 もう一つは広島教会で経験したことです。広島に赴任して一ヶ月もたつかたたない時に、一人の方の埋骨式を依頼されました。その方は20数年間自宅で病床にあった方でした。その方は1945年の8月6日のとき、出勤途中に被爆しました。原爆が投下されたとき、爆心地に近いところに被爆して24年目に病気で倒れました。その方も奥さんもクリスチャンでしたので、一日も早い回復をと二人で祈り合っていました。けれども何年か闘病生活が続き、回復が困難になったとき、その方は奥さんに病気を直してくださいという祈りはもう止めにして、主の祈りを祈ろうとおっしゃったそうです。それ以来、二人で主の祈りを祈るようになったのですが、奥さんは医学的に困難であっても、できれば回復の道をたどって欲しいと願い、病気をなおしてくださいと祈りたい、そうした思いから、あるとき、主の祈りのどの祈りが一番心に響くのですか、とご主人に尋ねたところ、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」だと答えられたというのです。
 原爆が投下されて、悲惨な状況をまのあたりにしたその方は、自分のこの地上での生涯が限られていることを知ったとき、この地に天におけると同じく御心をと朝に夕べに真剣に祈ることを大切にされたのです。

 わたしたちの世界では小さい者が軽んじられています。地では御心がなされないことがあります。イエスさまは天においてと同じように地に御心がなされるために十字架の道を歩まれました。ペンテコステのときに誕生した教会は、地に御心がなされる、ゆきわたる、そのことを望み見て、祈り続けてきました。わたしたちの教会も、天におけると同じように地に御心がなされる日を望み見て、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り続けましょう。

 

(2014年6月8日 聖霊降臨日礼拝説教)