2014.03.16

「敵を愛しなさい」

サムエル記下16:5〜14  マタイによる福音書5:43〜48

櫻井重宣

 
 イエスさまの十字架の苦しみを覚えるレントの一日一日を過ごしています。こうしたわたしたちに今朝示されているのは、マタイによる福音書5章43節から48節です。ここには、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、というイエスさまの言葉が記されています。どなたもそうかと思いますが、イエスさまがおっしゃることは無理がある、敵を愛せない、迫害するもののために祈れない、どうしてイエスさまはこういうことをおっしゃるのか、という問いです。
 太平洋戦争のとき、教会では戦争に勝利するよう祈りました。私たちの国だけではありません。原子爆弾を積んだエノラゲイが飛び立つとき、牧師は、この飛行機が任務を全うできるよう祈りました。戦争のとき、相手国のため祈れませんでした。
 教会内でもそうです。二千年の教会の歴史は宗教戦争でした。学生時代、宗教戦争の歴史を困ったものだと一歩退いて見ていたわたしでしたが、伝道者としてスタートした年からわたしたちの教団は大きな試練に直面し、なかなか一つになれない苦悩のときが続いています。わたしはそうした苦悩を味わい続けていがら45年間伝道者として歩んできました。説教を語る者がそうした苦悩をもっておりますが、それだけにイエスさまのおっしゃろうとすることを表面的ではなく、深いところに耳を傾けて参りたいと願うものです。 
 もう一度43節から45節を読んでみましょう。
 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
 この山上の説教を語るイエスさまのまわりには弟子たち、さらにその弟子たちを囲むようにして病気に苦しむ人、いろいろな悩み、悲しみにあえぐ人がいます。わたしはこの説教を身近なところで弟子たちが聞いていたことに思いを深くさせられます。イエスさまのお仕事をお手伝いする人々が、人を愛せない、赦せないという苦しみを持っています。わたし自身そうです。 
 そうした人々に、イエスさまは「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃるのです。
 「隣人を愛しなさい」という戒めはレビ記に記されています。これはとても大切な教えです。けれども、「敵を憎め」ということは聖書のどこを探しても記されていません。どうしてイエスさまは「『敵を憎め』と命じられている」とおっしゃるのでしょうか。
 イエスさまの時代の人々は、「隣人を愛しなさい」という戒めは、隣り人に限定され、敵にまで及ばないと受けとめていました。そこでイエスさまは、あなたがたは、愛しなさいといわれると、隣り人は愛さなければならないが、敵にまで及ばないと思っているけれども、愛を隣り人に限定せず、敵を愛しなさい、迫害する者のためにも祈りなさい、というのです。どうしてこうしたことをあなたがたに勧めるか、それはあなたがたが天の父の子となるためだ、というのです。そしてイエスさまは、父なる神さまは悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、というのです。
 山上の説教を聞いているのは、弟子たちだけではなく、いろいろな苦しみ、悲しみ、重荷をたずさえ、病気を抱えている人々です。決して、学者とか、この世の地位の高い人々ではありません。イエスさまは、どんな人の上にも神さまは太陽を昇らせ、雨を降らしてくださる、神さまの愛はどの人にも注がれている、あなたがたにも注がれている、というのです。おりこうだから、良い行いをしたから神さまが愛してくださるのではない、神さまは苦しんでいるあなたがた、病気のあなたがたをどんなときにも愛しておられるのだ、と語りかけるのです。 
 そうした神さまの大きな、豊かな愛を心底受けとめ、そのことに感謝し、あなた方も天の父の子となるため、敵を愛し、迫害する者のためにも祈れとおっしゃるのです。イエスさまは、神さまがどんな人を愛してくださっている、その愛に応えようというのです。

    さらに読み進みますと、46節〜48節でこうおっしゃいます。
  「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」
 自分を愛してくれる人を愛する、自分の兄弟にだけ挨拶する、こうしたことは徴税人、異邦人でもしている、と。そして、イエスさまは説教を聞く人々に、あなたがたは「優れたことをしなさい」「天の父が完全であられるようにあなたがたも完全な者となりなさい」と勧めます。
 「優れたこと」というのは、「なみはずれたこと」「あたりまえでないこと」です。神さまはなみはずれたことをしてくださった、神さまの愛は完全な愛だ、その愛にお応えしようというのです。

 この個所に思いを深める時、真っ先に思い起こすのは、先程お読み頂いたサムエル記に記されるダビデの姿です。
 ダビデは王さまになったとき、部下ウリヤの妻バト・シェバと姦淫するという大きな罪を犯しました。けれども、ダビデは預言者ナタンからその罪を指摘されると、ハッとして神さまに本当に申し訳ありませんでしたと、おわびしました。まもなく、息子アブサロムのクーデターにより、ダビデは泣きながらエルサレムをあとにします。しかも、逃げる途中、サウル家の一族の出のシムイという人から、石を投げつけられ、呪われます。「出て行け、出て行け、流血の罪を犯した男、ならずもの。サウル家のすべての血を流して王位を奪ったお前に、神さまが報復し、神さまが息子アブサロムに王位を渡されたのだ」。ダビデと一緒に逃げている側近の弟子たちはがまんできません。けれども、ダビデは、勝手にさせておけ、神さまの命令で呪っているのだ、と言います。ダビデとその一行が道を進むと、シムイは並行して山腹を進み、呪っては石を投げ、塵を浴びせかけたのです。 
 昨年の教会学校の夏期聖書学校でダビデのことを学びました。6回の礼拝で、ダビデのことを学びましたが、その時直接はこのシムイとダビデの事は学びませんでしたが、わたしはダビデの生涯で、非常に印象深く思わされる出来事の一つです。ダビデはシムイに報復しません。バト・シェバと姦淫し、ウリヤを前線に送り、戦死させるという大きな罪を自覚しているからです。
 足尾銅山の公害問題を訴え続けた田中正造さんは晩年、拷問を受けたとき、「この身悪魔にして、悪を破るに難し、このゆえに懺悔洗礼を要す」、と言って、どんなに拷問をうけても呪いませんでした。
 日本の教会は苦悩のただ中におりますが、こうしたダビデや田中正造さんのような謙遜な姿勢が一人一人に求められていることを思わされます。

 人生の半ばでイエスさまにお会いし、伝道者となったパウロは、ローマの信徒への手紙5章でこういうことを書き記しています。
  「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれませんしかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死のよって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命のよって救われるのはなおさらのことです。」
 イエスさまは、弱かったころ、不信心な者のため、罪人であったとき、敵であったとき、十字架の死を遂げてくださったというのです。山上で説教でイエスさまは、あなたのためにも、どの人のためにも十字架の死をいとわない、そうした思いでお話しするので、聞く人たちの心に迫ったのです。

 敵を愛せ、というとき、思い起こすのは、マルティン・ルーサー・キング牧師です。キング牧師は今から46年前、1968年4月4日狙撃されて39歳で亡くなりました。
 キング牧師の働きが脚光を浴びるようになったのは26歳のときです。モントゴメリーで、一人の夫人が白人にバスを譲らなかったということで逮捕され、そのことを重く受けとめた黒人たちが翌日から、バスをボイコットし、バスボイコット運動は一年続きました。その運動のリーダーが若いキング牧師でした。しかし、その運動の最中にキング牧師の家に爆弾が投げ込まれました。幸い、奥さんも赤ちゃんも無事でした。キング牧師の家に爆弾が投げ込まれたというので、多くの黒人の人々が集まり、暴動が起こりそうになりました。そのときのことが、岩波新書の『自由への大いなる歩み』に記されています。

 《群衆に平静にかえるように頼んだ。一瞬のうちにあたりは水をうったようにシ―ンとなった。ぼくはしずかに彼らにむかって、ぼくは無事だし、家と赤ん坊も無事だと告げた。「あわてないようにいたしましょう。武器をもっているなら、家へもってかえりなさい。もっていないなら、どうか武器を手にいれようなどとなさらないでください。ぼくたちは暴力による報復によってこの問題を解決することはできません。ぼくたちは、暴力に対しては非暴力をもってこたえねばなりません。『剣をとるものは剣にて滅ぶ』というイエスの言葉を思い起こしてください。」つづいて、ぼくは、彼らに平静にここを立ち去るように勧めた。ぼくはいった。「彼らがぼくたちに何をしようともぼくたちは白人の兄弟を愛さねばなりません。ぼくたちは、ぼくたちが彼らを愛していることを彼らにしらせてやらねばなりません。イエスはいまなお数世紀をへだてて次のような言葉で叫んでおられます。『汝らの敵を愛し、彼らを憎む人を恵み、彼らを迫害しかつ讒謗する人のために祈れ』と。ぼくたちはこのみ言葉にもとづいて生きねばなりません。ぼくたちは愛をもって憎しみにこたえねばなりません。このことを記憶していただきたい。」そしてぼくはつぎの言葉で話しを閉じた。「もしぼくが止められても、この運動は決して止まらぬでしょう。なぜなら、神はぼくたちの運動とともにいまあすのだから。こうした輝かしい信仰と確信をもって帰宅していただきたい。」
  ぼくが話しおえたとき、「アーメン」といい「神よ、あなたを祝福したまえ」という叫びがあがった。「ぼくたちは、最後まであなたと共にいる。牧師さん」という声が聞かれた。ぼくは大群衆を見渡したが、たくさんの人々の顔に涙を認めた。》 

 キング牧師は『敵を愛せ』という説教でこう語っています。
  「敵を愛せよという命令は、ユートピア的夢想家の敬虔な指図であるどころか、われわれの生存のために絶対に必要なものなのである。敵をすら愛するということはわれわれの世界の諸問題を解くかぎである。イエスさまは実際的な現実主義者なのだ。」
  敵を愛せよというイエスさまの命令こそ、私たち世界の諸問題を解くかぎである、というキング牧師の言葉に深く耳を傾けたいと思います。

 わたしたちのために、十字架に架かり、命を捨ててくださったイエスさまが。「敵を愛せ。迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃっているのです。   

(2014年3月16日 主日礼拝説教)