2013.11.10

「主イエスの招き」

イザヤ書8:5〜10  マタイによる福音書4:18〜22

櫻井重宣

 
 ヨハネ福音書の中にこういう言葉があります。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 この言葉は、聖書の語るメッセージを最もよく要約している、小福音とも言われます。神さまは独り子イエスさまを私たちの世界にお与えになるほどに、この世界を愛された、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。この言葉に聖書が語らんとすることが言い表されているというのです。
 私たちは、今日、こうしてクリスマスの礼拝をささげているわけですが、クリスマスは、まさに、神さまがわたしたちにイエスさまを贈ってくださった日です。神さまがイエスさまをお与えになるほど私たちを愛してくださった大きな神さまの愛を心から感謝するのがクリスマスです。

   実は、先週の日曜日の礼拝でも申し上げたことですが、一人の先輩の牧師がこういうことをおっしゃっていました。イエスさまは下へ下へと上って行かれ、最後には十字架の道を歩まれた方だ、と。 
 あらためて、イエスさまが辿られた道を思い起こしてみましょう。
 イエスさまがお生まれになったのはユダヤの首都ともいうべきエルサレムではなく小さな町ベツレヘムでした。そして生まれてすぐ、ヘロデ王がイエスさまの命をねらったのですぐエジプトに行きました。ヘロデ王が死んだ後、ユダヤに帰ってこようとしたのですが、ヘロデ王の息子アルケラオがユダヤを支配していると聞き、当時、人々がさげすんでいたナザレで30歳まで過ごされたのです。イエスさまは「大工の子」と言われていますので、ナザレで父親のヨセフと共に大工をしていたものと思われます。
 30歳のとき、イエスさまは洗礼者ヨハネが逮捕され牢にいれられたと聞き、住む所をナザレからカファルナウムに移されました。洗礼者ヨハネが牢に入れられたのは、ガリラヤの領主ヘロデが自分の兄弟の妻ヘロディアを離婚させ、そのヘロディアと結婚したとき、洗礼者ヨハネが、あなたの結婚は間違っていると言われたからです。
 そのことを聞いたイエスさまはナザレを離れ、ナザレよりももっと辺境の地のカファルナウムに住まわれ、公の働きを始められたのです。ヨハネを逮捕したヘロデはガリラヤの領主ですので、ヘロデのおひざもとに移り住んだのです。
 カファルナウムがある地は、ゼブルンの地とナフタリの地と言われ、暗闇、死の陰の地と言われる町です。イエスさまがカファルナウムの住民となったとき、すなわちその地に住む人々の労苦を共にするようになったので、その町にすむ人々は光を見、その地に住む民に光が射し込むようになったとマタイは言うのです。そしてイエスさまはそのときから、悔い改めよ、天の国は近づいたのだから、と伝道を始められました。 
 このように、イエスさまは、安全な道とか、上に上る、そういう道ではなく、より困難なところ、下へ、下へと歩まれ、最後には苦難の道を歩かれ、十字架に架けられたのです。
 イエスさまは下へ、下へと上られた方だ、とおっしゃった一人の牧師の言葉にいつも深い思いをさせられています。

   先程マタイによる福音書4章18節〜22節を司会者にお読み頂きました。そこにこういうことが記されていました。
 イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたときです。二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になりました。彼らは漁師でした。イエスさまは、この二人に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」といっしゃいますと、二人はすぐに網を捨ててイエスさまに従いました。そこから進んで、別の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になり、彼らをお呼びになりますと、この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った、と。
 ここにはペトロとアンデレ、またヤコブとヨハネがイエスさまに招かれたとき、すぐついて行ったことが記されています。イエスさまに招かれたとき、ためらったとか、不安を覚えたということ等、心の中の葛藤については何一つ記されていません。イエスさまが、わたしについて来なさい、と招かれたときペトロとアンデレは網を捨てて、ゼベダイの子ヤコブとヨハネは舟と父親を残してイエスさまに従ったというのです。

 どうして二組の兄弟たちはイエスさまに招かれたとき、すぐついて行ったのでしょうか。
 これは先程から心に留めていることですが、イエスさまが下へ下へと進んで行かれた、すなわちイエスさまの低さということと関わりがあるのではないでしょうか。

 田中正造という人がいました。田中正造は足尾銅山の鉱毒問題で10年間国会議員として力を尽くした人です。いわゆる公害問題で戦った最初の人です。今年は亡くなって百年です。1901年明治34年61歳の田中は政治家を捨て明治天皇に直訴しましたが失敗に終わりました。そして1904年、彼は足尾銅山の鉱毒問題の真っただ中の谷中村に住むようになりました。多くの谷中村人々は既に村を去っていたのですが、イエスさまがカファルナウムの住民となったように、田中は谷中村の一員となりました。
 最近、田中正造に多くの人があらためて注目しているのは、フクシマの問題と重なるからです。
 田中正造に深い関心をもった林竹二という宮城教育大学の学長をされた方がいました。何冊も田中について著書があります。林先生は、田中が谷中村に移り住んだとき、田中と谷中村の残留民とを隔てる深淵があったというのです。そのため、田中は、彼らのために死ぬことはできても、彼らと生を共にすることができなかったというのです。
 谷中村に入って数年後、田中はある残留民の死とマタイ伝によって目が開かれました。田中はマタイ伝をぼろぼろになるまで繰り返す読んだ人です。谷中の残留民が「日本の地獄を一身に引き受け」、「地獄に背を向けず」「そこに生きることで地獄を突き抜け」、彼らの歩みが天国への道普請となっていることに目が開かれたのです。そして、田中はこうした残留民が先に立って歩き、正造はそのあとについていく歩みへと変えられていきます。
 すなわち、田中は、谷中村の人々に学ぶほどに身を低くしています。残留民の後を歩いています。そして、祖国の受けるべき裁きを一身に引き受けようしています。こうした残留民の一員となったとき、はじめて彼らとその生を共にできたのです。
 田中正造が死んだのは百年前の1913年9月4日です。彼が亡くなったときの所持品は日記三冊、新約聖書、帝国憲法とマタイ伝を糸でつないだものでした。

 イエスさまはペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネに、わたしについて来なさい、とおっしゃると、彼らはイエスさまに従いました。従うというのは同じ道を歩くということです。そうしますと、ここでのイエスさまの招きは、あなたと一緒に歩むよ、あなたの後ろを歩くよ、一緒に歩こう、あなたの苦しみを一緒に担うよ、ということです。ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはそうしたイエスさまの招きに応えたのです。

   先程、預言者イザヤの預言に耳を傾けました。イエスさまがお生まれになったとき、マタイは、イザヤが預言したインマヌエル、神、我らと共にいますが実現したことを語りました。そして先程、耳を傾けたイザヤ書8章でイザヤ語っていたことはこうです。
 諸国の民よ、連合せよ、だがおののけ。
 遠い国々よ、共に耳を傾けよ。
 武装せよ、だが、おののけ。
 武装せよ、だが、おののけ。
 決定するよい、だが実現することはない。
 神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。

 人間の思うように行かない現実のただ中にわたしたちは生きている、けれども、この世界はインマヌエル、神が我らと共におられる世界だ、と。神さまが共におられるので、順調な歩みができるというのではありません。思いどおりに行かない現実の中にいるけれでも、この現実のただ中に神さまが共におられる、とイザヤは言うのです。
 最後にこうしたイエスさまの低さに慰められた二人のことをお話しします。
 一人はロシアの文豪ドストエフスキーです。
 彼が、若いとき、当時のロシアの政府の意向に沿わないということで政治犯として捕らえられシベリアに流されることになりました。ちょうど、橇に乗せられて出発したのがクリスマスの夜でした。護送されていくわけですが、どの家でもクリスマスのお祝いがなされている。兄さんの家の前も、友人の家の前も通ったのですが、護送中なので誰の家にも立ち寄ることができません。どの家でも楽しそうにクリスマスが祝われています。そうしたなかをみじめな思いで、橇に乗せられて連れて行かれたというのです。 
 その日泊まったのはある小さな町の留置場。ドストエフスキーのあまりにも憔悴した姿を見るに見かねた一人の年老いた看守が、「おい若いの、しっかりしろ。キリストさまも苦しまれたのだから」と声をかけたという。後にドストエフスキーはあの一言で立ちあがることができたと言っています。
 看守の思いはこうだったと思います。
 「おい、若いの、しっかりしろ。今日はクリスマスだ。イエスさまは旅先の馬小屋でお生まれになったのだ。そしてあり合わせの布にくるまって飼い葉桶に寝かせられていたのだ、イエスさまは三十歳になって神さまのご用を始め、苦難の道を歩まれ、十字架に架けられて殺されたのだ。今、君は淋しい、辛い思いをしている。でも、イエスさまは馬小屋にお生まれになったので、十字架の死を遂げた方なので、辛い思いをしている君うぃ見放しておられない、君のそばにいてくださるのだ。今日は、そのイエスさまのお誕生日だ。元気をだそう、勇気を出してくれ」
 ドストエフスキーは生涯、この留置場の看守の言葉を思い起こし、励まされたというのです。

 もう一人は水野源三さんです。春の伝道礼拝のとき紹介しました。 
 水野さんは、小学校4年生のとき、高熱のため、まばたき以外一切の意志伝達機能無くしました。けれども、水野さんはお母さんの励ましで、アイウエオ表を用い、まばたきでたくさんの詩や短歌を作りました。
 1984年2月に亡くなったので、最後のクリスマスは1983年でした。 今から30年前です。このときに水野源三さんはこういう詩を作っています。

     「臥す私も」
 礼拝にゆけない 私のために
 母が買ってくれた テープレコーダーを買い替えて
 礼拝のテープを ひとり聴けば
 臥す私も 臥す私も
 馬小屋に お生まれになられた
 御子を礼拝する 羊飼いたちの中

 イエスさまが低くお生まれになったので、臥すわたしも拝みに行くことができるというのです。
 イエスさまは、小さく、低くお生まれになったので、どんなときにも、どんなところでも私たちと一緒にいてくださいます。この世界はインマヌエルの世界です。            

(2013年12月22日 クリスマス礼拝説教)