2013.11.10

「天の国は近づいた」

イザヤ書40:1〜11  マタイによる福音書3:1〜12

櫻井重宣

 
 本日は、マタイによる福音書3章1節〜12節を通して、神さまが私たちに語りかけようとしていることに耳を傾けたいと願っています。
 9月からマタイによる福音書を学んでいますが、今日学ぶ3章に先立つ2章にこういうことが記されていました。
 イエスさまがお生まれになったのはエルサレムではなくベツレヘムであったこと、そしてイエスさまを拝みに来た占星術の学者たちが、夢で「ヘロデのところへ帰るな」と天使に告げられたので、ヘロデに報告しないまま東の国へ帰ってしまったこと、ヘロデはそのことを大いに怒って、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させてしまったこと、イエスさまはというと、ヨセフに夢で主の天使が現れ、「起きて、子どもとその母親を連れてエジプトに逃げなさい」と告げ、ヨセフは起きて、夜のうちにエジプトへ旅立って、ヘロデが死ぬまでエジプトにいたこと、ヘロデが死んだ後、イスラエルに戻ったのですが、ヘロデの息子が跡を継いでユダヤを支配していることを聞き、夢でガリラヤにとお告げがあったので、ガリラヤのナザレという町に行って住んだこと、そうしたが記されていました。

   そして、今日の3章になるわけですが、もう一度冒頭の1節と2節を読んでみましょう。
 《そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。》  
 ルカによる福音書によりますと、イエスさまが神さまのご用を始めたのは、30歳であったと記されていますが、マタイはナザレに行って住んでから30年近い年月の間のことを一切記していません。
 今から75年位前に亡くなった人ですが、ドイツにシュラッタ―という新約学者がいました。新約聖書を一人で翻訳した人は何人かいますが、このシュラッタ―という学者はひとりで、マタイによる福音書からヨハネの黙示録まで新約聖書27巻すべての注解を著しています。今、それは日本語にも翻訳されていますので、わたしもよく用いさせてもらっています。とても教えられ、励まされることが多い注解書です。今日のこの箇所でシュラッタ―はこういうことを書いています。
 「ナザレではイエスの中にキリストを認める者はだれもいなかった。イエスもまた、自らをイスラエルの王として表すようなことを、御自分の意志によってはなさらなかった。むしろ、いかにして神が自分をナザレから導きだし、イスラエルの真ん中におかれるか、静かに待っていた。そしてそのことはバプテスマのヨハネがその業を開始したことによって、起こった。」
 シュラッタ―は、ヨハネがどのような働きをするか、どのようなことを語るか、ということはイエスさまがどのような働きをし、どのようなことを語るか、を証ししているというのです。
 これはとても大切な指摘だとわたしも思います。
 ヨハネの第一声は、2節にありますように「悔い改めよ、天の国は近づいた」です。原文の意味合いをもう少していねいに翻訳しますと、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」です。ヨハネは、天の国は近づいたのだから、悔い改めよ、というのです。
 実は、4章12節でヨハネが捕らえられたと聞いて、イエスさまは住むところをナザレからカファルナウム変え、伝道を始めるのですが、イエスさまの第一声もヨハネと全くおなじです。
 4章17節を見ますと、こう記されています。
 《そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。》ここも、「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」です。

 わたしたちが、最初に心に留めたいことは、ヨハネもイエスさまも、悔い改めなければ、天の国へ入れないと語っているのではなく、天の国は近づいたのだから、悔い改めよ、と語っていることです。このことは3節の旧約の預言者イザヤの言葉の引用からも知ることができます。
 3節にこう記されています。
 《これは預言者イザヤによってこう言われている人のことである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を備え、その道筋を真っ直ぐにせよ。』」》 
 このイザヤの言葉は先程読んで頂いたイザヤ書40章の4節、5節の引用です。そして先立つ1節〜3節にこう記されていました。
 《慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。
 エルサレムの心に働きかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、
 彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。》

 これは第二イザヤと便宜的に言われている無名の預言者の預言です。バビロンとの戦いに敗れ、バビロンに連れ去られ、捕虜としてバビロンで50年近く生活していた人々は生きることにも疲れを覚えていました。この時代に生きた預言者は、神の民を慰めよ、という使命を神さまから与えられました。そうしたときにペルシャの王さまキュロスがバビロンを打ち破りまいた。そして、キュロス王は、捕囚生活を余儀なくされていたイスラエルの民にエルサレムに帰ってよいという命令を出したのです。
 第二イザヤは、バビロンでの苦役の時は終わった、その咎は赦された、罪のすべてに倍する報いを受けた、慰めの時が到来した、と語るのですが、そうしたときに、それに呼応するように、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ、と呼びかける声がしたというのです。
 マタイはこうした第二イザヤの預言を引用しつつ、天の国は近づいたと、天の国の接近を、耳をすまして聞こうとしているのです。そして、天の国は接近したのだから悔い改めよ、と語るのです。

 4節にはヨハネがどんな服装をし、何を食べていたかが記されています。
 《ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。》
 終わりの時に再び現れる、とされていたエリヤを思い起こさせます。ヨハネは、自ら禁欲的な生活をし、悔い改めを迫るのです。
 5節と6節にはこうあります。
 《そこで、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けた。》
 実は、マタイは「すべての」という語をよく用います。ここでも2回用いています。エルサレムとユダヤの全土、すべてのところから、そして、ヨルダン川沿いの地方一帯、すべてです。
 このあと4章には、イエスさまはあらゆる病気の人をいやされた、あらゆる病人が連れてこられたことが記され、11章では、重荷を負う者、疲れた者はすべてわたしのもとにきなさい、休ませてあげよう、とおっしゃり、最後の28章の最後は、すべての民をわたしの弟子にしなさい、です。
 マタイは、イエスさまはすべての人を招かれたということを大事なメッセージとしています。そのマタイは、ヨハネのところにも全土から来て、罪を告白し、バプテスマを受けたというのです。
 けれども7節から10節でファリサイ派の人々やサドカイ派の人々に厳しい言葉を語ります。
 《ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。》
 どうして、この人々に厳しい言葉をヨハネは語るのでしょうか。それは、彼らが「我々の父はアブラハムだ」と言っていたからです。この人たちは、自分たちは、ほかの人々とは違う、すでに天の国への座席が用意されていると考えていたからです。
 ヨハネは、それは間違っている、と言います。天の国が近づいているのだ、自分たちが天の国に向かって歩むのではなく、天の国が近づいてくるのだ、というのです。
 最後の11節と12節をお読みします。
 《わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」》
 ヨハネとイエスさまの相違です。イエスさまは聖霊と火でバプテスマを授けます。徹底的な赦しを差し出します。どういうかたちで徹底的に赦しを差し出すか、というと、自ら迷い出た一匹の羊のため、自ら傷つきつつも探し出す、最後的には、ご自分が十字架の死を遂げることによって、全き赦しを差し出されるのです。
 あえて言うなら、こうしたかたちで神さまは天の国を来らせてくださる、こうしたかたちで天の国が近づいている、だから悔い改めよとヨハネ、そしてイエスさまが語られるのです。

 一枚の絵を思い起こします。わたし自身、感銘を受けているので、折りにふれて紹介していますが、グリューネバルトの「キリストの磔刑」という絵です。グリューネバルトという画家は今から500年位前の宗教改革の時代の画家です。「キリストの磔刑」という絵はイ―ゼンハイムの礼拝堂にあります。正面に十字架上で息を引き取ったばかりのイエスさまが描かれています。いばらの冠をかぶせられ、十字架に架けられる前に打たれた鞭の跡、十字架に架けられたときの釘跡、額や手、足から血が流れています。絵の左側には倒れんばかりの母マリアが愛する弟子ヨハネにかかえられています。マグダラのマリアはこの現実をどう受け留めたらよいのか、必死に祈っています。けれども絵の右側にはバプテスマのヨハネが描かれ、ヨハネはさわやかな表情で「見よ、この人を」と十字架の死を遂げたばかりのイエスさまを指差しています。自分が指差したのはこの人でよかったという喜びの表情が描かれています。
 マタイ福音書を読み進みますと、4章でヨハネが捕らえられたということを聞いたイエスさまがナザレからカファルナウムに来て「悔い改めよ、天の国は近づいたのだから」と宣べ伝え始めました。そして11章には、捕らえられたヨハネが、自分の弟子をイエスさまのところに遣わして「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねさせました。自分の指差した方は、あのナザレのイエスでよかったのだろうか、と獄中で不安を覚えたのです。もし、ちがっていたら、イエスさまを指差した自分の働きが無になってしまうからです。
 獄中で不安のうちにあったヨハネにイエスさまは、行って見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている、と。天の国は来ている、というのです。
 そのことを伝え聞いたヨハネはまもなく打ち首になります。そして、ヨハネが指差したイエスさまも十字架の死をとげるのです。
 グリューネバルトの信仰を心深く思わされます。打ち首になったヨハネを、イエスさまの十字架の死の場面に登場させ、ヨハネに、自分はこの方を指差してよかった、と告白させています。グリューネバルトの信仰告白です。

 悔い改めよ、天の国は近づいたのだから、と語ったヨハネが打ち首になり、イエスさまは十字架に架けられます。
 イエスさまは十字架の死を遂げてまでして、すべての人に福音を伝えられたのです
 「悔い改めよ。天の国は近づいたのだから」              

(2013年11月10日 主日礼拝説教)