2013.10.20

「大切なのはひとり」

イザヤ書49:1〜6  マルコによる福音書5:1〜20

櫻井重宣

 
 先週は、台風26号で多くの方が亡くなり、被害に遭われた方々も多くおられました。伊豆大島の土石流の被害には心が痛みます。それとともに二宮では小学6年生の二人の男の子が高波に呑まれました。幼い子どもさんの命を守ることができない私たち大人の責任を思わされます。

 さて、今回の伝道礼拝の御案内のチラシにマザー・テレサの言葉を書き記しましたが、紙面の関係で少し省略しましたが、こういう文です。
 「自分たちの今していることは、大海の一滴に過ぎないと思っています。けれど、もしその一滴がなかったら、大海もその一滴のぶんだけ少なくなってしまうでしょう。ものごとを大規模にやるという方法に、わたしは不賛成です。わたしたちにとって大切なのは、ひとりひとりです。・・・・わたしは一対一というやり方を信じています。」
 マザー・テレサは大きな働きをした人ですが、自分たちが今していることは、大海の一滴に過ぎない、しかし、その一滴が大切だ、だから、わたしたちにとってひとりひとりが大切なにであって、だれに対しても一対一で関わるというのです。
 実は、今、耳を傾けたマルコによる福音書5章1節から20節には、汚れた霊に取りつかれたため社会からはじき出されてしまったひとりの人を、イエスさまはかけがえのない大切な人として、全力で、一対一で関わったことが記されています。

 イエスさまは、ガリラヤ湖の北の方にあるカファルナウムという町を中心にして30歳のときからおおよそ3年間、神さまからのご用に励み、最後に十字架に架けられてしまった方です。
 今、読んで頂いた個所のすぐ前にこういうことが記されていました。イエスさまが、弟子たちにガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとおっしゃり、弟子たちと一緒に舟に乗り込みました。弟子たちが漕ぎ出してしばらくしたとき、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした。けれども、イエスさまは艫の方で枕をして眠っておられました。弟子たちが「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言ったところ、イエスさまは起き上がって風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」とおっしゃいました。そうしますと、風はやみ、すっかり凪になりました。突風のためもうだめだと思ってしまうような怖い思いを必死に舟を漕いで、ようやくイエスさまと弟子たちの一行はゲラサ人の地方に着きました。
 イエスさまが舟から上がれるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ました。この人は、墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできない人でした。それまでにも度々足かせや鎖で縛られたのですが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできません。その人は、昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいていました。

 聖書の中にはいろいろな苦しみ、病を持った人とイエスさまの出会いの記事が記されています。マグダラのマリアという婦人はイエスさまに七つの悪霊を追い出して頂いた人と、聖書に記されています。この墓場をすみかとしていた人もいくつもの悪霊がその人の中に入り込み、自分で自分をコントロールできず、自分をも傷づけていました。暴力をふるうので、足枷や鎖でつなぎとめておこうとしたのですが、引きちぎってしまうので墓場を住みかとするようになりました。いつしか、本人だけでなく家族も地域の人もその人が墓場を住みかとすることがやむをえないと思っていたのです。

 二千年前だけではありません。わたしは牧師として40数年奉仕してきましたが、今日のこの箇所を読むと、本当につらい思いになります。こうした苦しみを持つ人やご家族がいつもわたしの身近なところにおられ、その方々の苦しみを共に担うことができないでいるからです。わたしが若い時に出会った方で、40年近く精神病院で入院生活が続いている方がおられます。毎月のように私たち夫婦にあてて葉書がきます。先日届いた葉書には、先生、わたしは60歳になりました、と記されていました。20代の前半から彼女は病院での生活です。また、ご子息のことで夜遅くなって泣きながら電話をくださる方がおられます。その方のご子息は、自分で自分をコントロールできず暴力を振るい今は、彼は隔離されたところにいます。今日のこの記事は他人事ではありません。

 ところで、イエスさまが舟から上がられると、その人は走り寄ってきて、イエスさまにひれ伏し、大声で「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」叫びました。
 この人は直感的でしょうか、舟から下りた方が、神さまの子で、病に苦しむ自分をそのままにしない、自分に関わろうとする方だと分かりました。ですから必死に、かまわないでくれ、放っておいておしい、わたしに介入しないで欲しい、わたしにはわたしの世界がある、そこに神さまの子であっても入ってくれるな、というのです。イエスさまはこの人に「汚れた霊、この人から出て行け」とおっしゃったからです。家族や近所の人が、抱えきれず、墓場に追いやり、足枷や鎖で縛ろうとしたこの人に、イエスさまはどんなにエネルギーを費やすことがあっても全力で関わろうとします。イエスさまは、汚れた霊がこの人を苦しめていることが分かったからです。わたしはイエスさまがこの人に「汚れた霊、この人から出ていけ」とおっしゃったことに、心の病を持つ人びとへの限りない優しさをいつも思わされます。その人の人格の問題ではなく、悪霊が、汚れた霊が彼の中に入り込んでいるので、彼は自分で自分をコントロールできないことをご存じなのです。

   かまわないでくれと言うこの人に、イエスさまが最初に尋ねたのは名前でした。「名は何というのか」、と。
 本日は、礼拝後、マザー・テレサのことをお話ししたいと願っていますが、マザー・テレサの最も大きな働きは、インドのカルカッタの路上でだれからも看取られることなく亡くなっていく人のことに心を痛め「死を待つ人の家」を創り、そこに死に瀕した人をお連れして看取りの業をなしたことです。マザー・テレサが、そうした人が運ばれたときに最初に聞くことは、その人の名前と宗教です。行き倒れになり、連れて来られた人をかけがえのない大切な人として看取りをするためです。あなたは愛されてこの世に生を受けた、ここでは、あなたのお名前をうかがって、あなたのお名前を呼んで看取りさせて頂く、そしてもしここで地上の歩みを終えるときには、わたしたちはあなたの死を悲しむ、涙するというのです。
 宗教をお尋ねするのは、宗教はその人の最も大切なものだからです。ですから、「死を待つ人の家」に連れて来られた人に、あなたはヒンズー教ですか、仏教ですか、キリスト教ですかとお尋ねし、ヒンズー教ですと答えた人には、それではあなたが万が一のときは、ヒンズー教のお寺でお葬式をして頂きましょう、仏教という人には仏教でお葬式をして頂きましょう、キリスト教という人にはキリスト教で、と答えるとその人は安心するというのです。

 けれども、この汚れた霊に取りつかれた人は、イエスさまが「名前は何というのか」と尋ねたとき、自分の名前を名乗らず、「名はレギオン。大勢だから」と答えました。レギオンというのはローマの6000人の軍団です。歩兵と騎兵から成る軍団です。自分の中にはレギオンのような悪霊が入り込んでいるというのでしょうか。
 わたしは、この人が自分の本当の名を名乗らず、レギオンと答えざるをえなかったことにこの人がどんなにつらい思いをしているのか、と思わされました。私たちの国では、長年、ハンセン病の人が自分の名前を名乗れませんでした。家族に迷惑がかかるからです。この人もそうです。
 この人が名前はレギオンです、と答えた後、イエスさまがやりとりするのは、汚れた霊どもです。汚れた霊はイエスさまに自分たちをこの地方から追い出さないようにとしきりに願いました。
 11節を見ますと、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていました。汚れた霊どもはイエスさまに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。イエスさまがお許しになったので、汚れた霊どもはその人のところから出て、豚の中に入りました。そうしますと、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んでしまいました。
 この男の人の中に豚二千匹を走らせるほどの汚れた霊が入り込んでいたので、豚二千匹が湖になだれ込んで死んでしまったのです。汚れた霊が豚に乗り移ったので、この男の人は正気になりました。
 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせました。そうしますと、人々は何が起こったのかを見にやってきました。彼らは、レギオンに取りつかれていた人が服を着て、正気になってイエスさまのところに座っていて、二千匹の豚がおぼれ死んでいるのを見て恐ろしくなりました。成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語りました。そうしますと、人々はイエスさまにその地方から出て行ってもらいたいと願いました。
 非常に不思議な光景です。あれほど墓場で大きな声を出し、鎖や足枷をこわし、自分を傷つけていた男が正気になって静かにイエスさまのそばに座っている、そしてそこに居合わせた人たちは、その人が正気になったことを喜びません。そうではなく、豚二千匹の損失を惜しみ、イエスさまにこの土地から出て行ってくれと願っているのです。 
 現在、豚一匹は三万円〜四万円するようです。そうしますと、豚二千匹は六千万円から八千万円です。豚飼いにとってとても大きな損失です。二千匹もの豚の群れが崖を下っておぼれ死んでしまったことに関心が行くのは当然です。しかも癒されたのは墓場を住みかとしていた人です。村では困っていた人です。そのため村の人は、汚れた霊に取りつかれていた人が正気になったことを受け入れることができず、イエスさまにこの地方から出て行って欲しいと願い出たのです。
 イエスさまは、舟に乗ってその町を後にしようとしたとき、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願いました。自分の過去を知っている人々の中で生きていくことに困難を覚えたものと思われます。けれどもイエスさまは、あなたの家に帰りなさい。そして身内の人にイエスさまがこうした自分を憐れんでくださったことを知らせなさい、自分はどうでもいい存在と思っていたけれど、自分が正気になるために豚二千匹を犠牲にした、村の人々は豚の損失を惜しんだが、イエスさまは自分がいやされたことをとても喜んでくださった、そのことを知らせなさい、とおっしゃったのです。その人は立ち去って、イエスさまが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方で言い広め始めたの
 で、人々は皆驚きました。
 イエスさまはというと、ゲラサ人の地でたった一人の人と出会っただけでまた舟に乗って再び向こう岸に渡られました。

 今日の箇所には計算上、割に合わないことが多く記されています。先ず、イエスさまと弟子たちは急な突風のため湖の上で大変な苦労をしてゲラサ人の地にやってきたわけですが、たった一人の人を癒しただけでまたその地を後にせざるをえなかったことです。そして、一人の病んだ人が正気になるのに八千万円もの損失が生じています。

 マザーテレサはこう語ります。
 「わたしたちの仕事で、とても大事なことがあります。それは、どれだけたくさんの仕事をするかではなく、どれだけ心をこめてひとりひとりを大切に思い、その方を本当に愛するかということです。わたしたちは仕事をたくさんすることに気をとられて、心の大事さを忘れてはいけません。」
 マザー・テレサの言葉を用いるなら、イエスさまは心を込めてこの人に関わりました。この人を本当に愛されました。嵐の中、舟でゲラサ人の地に行って、一人の人を癒しだけで、その村から追い出されたのですが、わざわざ行ったのに、とおっしゃりません。一人の人の癒しを心の底から喜んでおられます。

 先程、もう一か所、聖書を呼んで頂きました。イザヤ書の49章1節から6節です。そこに「主の僕の使命」という題がついていました。この預言がなされたのは、イスラエルの民が戦争に敗れ、その後多くの人々が捕虜としてバビロンに連れて行かれました。バビロンでの捕虜の生活が50年近く続き、人々は疲れ、生きる希望を見失ってしまいました。そうした時に、預言者に与えられた使命は、人々に慰めをもたらせ、ということでした。預言者は、どの人にも慰めをもたらそうとしましたが、困難でした。そうした苦しみからどの人にも慰めをもたらす方は主の僕をおいてほかにいない、ということで四つの主の僕の歌を歌いました。
 第一の歌は、主の僕は、傷ついた葦を折らない、今にも消えそうなともしびを消さない、真実をもって神さまの御旨を指し示すという歌です。
 第二の歌は先程の49章に記されています。主の僕が、傷ついた葦を折らない、ほのぐらい灯心を消さないで神さまの御心を示そうとするとき、僕は、時折、自らの働きがうつろに、空しく、覚える、自分の労苦がむなしさを覚えることがあるというのです。
 けれども、神さまはどんなに主の僕がみずからの働きにむなしさを覚えることがあったとしても、傷ついた葦を折らない、ほのぐらい灯心を消さない、そういう仕方で地の果てまで神さまの御旨を伝えるのであって、それ以外の仕方ではない、というのです。
 イエスさまはまさにそうです。汚れた霊に取りつかれた人の癒しのために多くのエネルギーを使っても、時間を使っても、お金がかかっても、人々からそのために追い出されることがあっても、一人の人の回復のため全力を注ぐのです。傷ついた葦を折らないのです。 

 聖書を読み進みますと、ヨハネ福音書3章16節にこういう言葉が記されています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 私たちが正気になるために神さまは御自分の独り子イエスさまをお与えになった。イエスさまは、わたしたちに真の命、希望を与えるために御自分の命を差し出してくださった、それが聖書の語ることです。
 私たち一人一人を神さまは重みのあるものとして、大切な人として位置付けておられるのです。

 マザー・テレサはキリストの心を心として働き続けられた人と言えます。  

(2013年10月20日 秋の特別伝道礼拝説教)