2013.01.13

「幸いなるかな 平和ならしむる者」

イザヤ書9:1〜6 マタイによる福音書5:9

櫻井重宣

 
 新しい年を迎えて、今日は二回目の日曜日です。この一年間も皆さんと御一緒に、主の日毎の礼拝を大切にして、信仰生活に励みたいと願っています。

 新年になりますと、私たちは、この一年、世界が平和であって欲しいという願いを持つのですが、世界の現状は、なかなか平和とはほど遠いことを思わされます。とりわけ、聖書の世界、パレスティナでは、日常の挨拶のとき、「シャローム」「平和があるように」と挨拶するのですが、パレスティナの現状を耳にするたびに、私たちの心は痛みます。こうした私たちに、イエスさまは「平和を実現する人々は幸いである」とおっしゃっています。「平和」は英語で、ピース、実現する人はメーカー、「平和を実現する人」はピースメーカーです。平和とは程遠い現状で、平和を造り出すというのはどういうことなのでしょうか。  

 今日は良い機会ですので、最初に、聖書では、平和ということをどのように語っているかを心に留めたいと思います。
 旧約の預言者たちは、戦争が繰り返されるという歴史の中で、「平和」を指し示し続けました。預言者のイザヤやミカは「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と、武器を放棄する世界を語りました。この言葉は国連にも掲げられています。また、預言者のエゼキエルは「囲いのない国、城壁もかんぬききも門もない」まさに無防備の世界を、さらに「失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」という、どの人も大切にされる世界を、平和ということで語りました。預言者エレミヤは、平和とはほど遠い現実が続く世界ですが、神さまが「あなたたちのために立てた計画は平和の計画であって、将来と希望を与える」ものなので、失望することなく、今、住んでいる町で平和を祈り続けるように、と勧めました。そして、先程読んで頂いたイザヤ書9章には、真の平和は、「平和の君」と言われる救い主の誕生によって実現し、その平和は終わりがない、すなわち救い主が誕生すると、平和はずっと続く、と預言しました。
 イエスさまがお生まれになったとき、天使は、羊飼いたちに救い主が誕生したことを告げた後、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美しました。イエスさまの誕生によってこの世界に平和が実現した、というのです。そして、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエスさまは、「あなたがたに平和があるように」と言われて、十字架の傷跡がついている手とわき腹とをお見せになりました。十字架の死を遂げたイエスさまが、平和を差し出しておられます。
 パウロはエフェソの教会に宛てた手紙で、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊した」と語っています。また、コロサイ教会に宛てた手紙では、「御子の十字架によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」と書き記しています。ここで「平和を打ち立て」は、イエスさまがおっしゃった「平和を造り出す」という語と同じ語で、ピースメークです。
 すなわち、新約聖書が語ることは、イエスさまが「平和の君」としておいでになった、イエスさまは十字架の死によって敵意という隔ての壁を取り壊し、平和を実現して下さったことです。けれども、まだこの世界には、未だ、真の、全き平和が目に見えるかたちで実現していません。実現するのは、イエスさまがもう一度おいでになるとき、終わりの日です。
 すなわち、今、私たちの生きている世界は、「平和の君」イエスさまがおいでになった世界、イエスさまは十字架の死を遂げ、平和を実現してくださった世界ですが、この世界に真の平和が実現するのはイエスさまがもう一度おいでになる時です。わたしたちは、その中間時代を歩んでいるのです。

 この山上の説教に耳を傾けているのは、毎回心に留めておりますように、病気に苦しむ人、家族や知人、友人の病気に心痛める人々です。また、生きることに疲れを覚えている人もいました。さらに、そして、今日の「平和を実現する人々は幸いである」という宣言に思いを深めますと、イエスさまの説教を聞きに集まっている人々の中には、平和を願いつつ、平和が実現しないので、自らの無力、弱さ、挫折、疲れを覚えている人もいたのではないでしょうか。
 と申しますのは、イエスさまの弟子は12人ですが、その一人は熱心党のシモンという人です。当時、ユダヤの国はローマの支配下にありました。ユダヤの多くの人は、ローマの支配をこころよく思わず、熱心党の人は力で、武力でローマの支配に立ち向かおうとしました。その熱心党のシモンがイエスさまの弟子になったということは、武力で、力でローマに抵抗しても真の平和が実現しない、そうしたことを思わされていたシモンがイエスさまにお会いして、力はではなく、愛と祈りをもって平和を造り出す歩みへと招かれたからではないでしょうか。
 わたしがシモンに心惹かれるのは、自らの体験と重なるからです。今から50年以上前になりますが、大学に入ったとき、世の中は、日米安全保障条約締結の問題、大学管理法の問題、原水爆禁止運動などの社会問題で騒然としていました。私たち学生は毎日クラスで討論会をし、終わると国会に向けてデモに行くという日々でした。けれども、その後、大きな課題に立ち向かうはずの運動の進め方で一つになれず、内ゲバが起こりました。わたし自身、そうした中で、熱心党のシモンに心ひかれ、神学校に行く決断をしました。

 こうした課題は二千年間の教会の歩みでいつも問われてきたことです。旧約の預言者が預言していた「平和の君」イエスさまが誕生し、イエスさまが十字架の死を遂げ、敵意を滅ぼし、平和を実現してくださったのに、目に見えるかたちでの平和は終わりのときを待たなければならない、そういういわば中間時代を疲れることなく、希望を持って生きるためにどうすればよいのか、それは二千年の間、教会に、キリスト者に問われた課題であったのです。
 代々の教会は平和を造り出そうとして、力を尽くし、祈りました。しかし、その努力は結果として挫折する、そういう苦しみを味わってきたのです。
 たとえば、72年前、1941年・昭和16年、あの太平洋戦争が始まった年ですが、日本のキリスト者は手をこまねいていたわけではありません。4月に日本の教会の代表7名を平和使節団としてアメリカの教会に派遣しました。阿部義宗先生、賀川豊彦先生、霊南坂教会の小崎道雄先生、恵泉女学園の河合道先生等7人です。七人はアメリカに渡ったのち、ロスアンゼルスでアメリカの教会の代表と真剣に話し合い、祈り合いました。その後、シカゴ、ワシントン、ニューヨーク等をまわりました。『日本基督教団史』には、この平和使節団の訪米はほとんど効果がなかったと記されていますが、それでも団長の阿部義宗先生は、帰国後、アメリカの教会が、日本が 中国から軍隊引き上げることが、和平交渉の条件だと語っているということを当時の近衛首相に伝えますと、近衛首相も本当にそうだと言って、戦争回避のため尽力するのですが、軍部の反対があり、近衛首相は辞職し、戦争に突入してしまいました。
 またその年の、12月1日から7日まで、ワシントンと東京で戦争回避を願って日本とアメリカのキリスト者が、連日連夜祈祷会をしました。東京では、連日10数人から40人近くが祈りました。その祈祷会が終わった次の日、真珠湾攻撃がなされたのです。祈りを連日連夜続けたキリスト者が覚えた空しさを思わされます。
 今一つ、わたしが神学校でお世話になった熊澤義宣先生は10年前に召されましたが、先生のマタイ福音書の説教集が出版されています。実は、今日の「平和を実現する人々は幸いである」の箇所の説教は1991年1月13日の日曜日に東京の井草教会でなされています。ちょうど22年前の今日の日曜日です。この説教で深く感銘を覚えたのは、この説教がなされたのは、湾岸戦争が始まるかどうかで世界中が心配していた日でした。説教の二日前、スイスでアメリカの国務長官とイラクの外務大臣が戦争を回避できるかどうかの瀬戸際で直接交渉しました。会談終了後、アメリカとイラクがスイスで記者会見したのですが、熊澤先生はその記者会見の様子を、夜を徹して御覧になり、戦争が回避されるよう祈っておられたことを説教で語っておられます。けれどもそうした祈りにもかかわらず戦争が始まったのです。

   「たとえ明日世界が滅びることを知っていても、私は、今日、なおわたしのリンゴの若木を植えるであろう」という言葉があります。宗教改革者のマルティン・ルターの言葉です。この言葉は、重い病のため、この地上での生命が限られた人に、なお今日という一日、リンゴの木を植えよう、一日一日が大切な意味がある、あなたの働きは受け継がれる、そうした励ましを与える言葉となっています。    
 実は、このルターの言葉がいつごろから人々の口に上るようになったかを調べた人がいます。1930年代の終わりころから、ドイツでナチスの弾圧に苦しむ人々の中で語られるようになったというのです。とくに第二次大戦の末期にこの言葉で互に励まし合うようになりました。さらに、戦後ドイツの教会で、冷戦時代に直面し、世界に平和という希望を見いだすことが困難な時代に繰り返しこの言葉が語られました。平和とはほど遠い現実の中で、平和を実現する働きの象徴となったのがこのルターの言葉でした。神さまが、この 世界に、終わりの日に全き平和を実現してくださる、そのことを信じてリンゴの木を植えよう、そうした励ましの言葉となったというのです。

   パウロはガラテヤの教会に宛てた手紙で肉の業と霊の実ということで、こういうことを語っています。「肉の業は、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」だというのです。そして、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」
 平和は肉の業ではなく、聖霊の結ぶ実です。神さまからのプレゼントです。神さまからの平和を望み見て、平和を造り出す歩み、りんごの木を植えるという作業をどんなに困難でも希望をもって植え続ける、その人をイエスさまは神の子と呼んでくださるのです。
 この御言葉に励まされて、新しい年の歩みをなしていきましょう。

          

(2013年 1月13日 主日礼拝説教)