2011. 4. 3

「一人一人が教会の大切な枝」


イザヤ書42:1〜4  エフェソの信徒への手紙4:1〜16

櫻井重宣

   新しい年度、2011年度を迎え、本日は最初の礼拝です。私たちの教会は本年度、「一人一人が教会の大切な枝」という主題と、エフェソの信徒への手紙4章7節の「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」を聖句として掲げ、教会生活に励もうとしています。そのため、本日は、この主題と聖句に込められている思いをご一緒に心に留めたいと思います。
 主題の聖句はエフェソの信徒への手紙の一節ですが、この手紙はパウロが晩年、獄中からエフェソの教会に書き送った手紙です。
 パウロとエフェソの教会には祈りの交わりがありました。それを象徴する出来事が使徒言行録に記されています。パウロは、三度伝道旅行をしていますが、三度目の伝道旅行のとき、飢饉のため困難な状況にあったエルサレムの教会に義捐金を届けに行こうとしました。けれども、エルサレムには、パウロの命をねらっている人たちがいたので、身の危険が予測されました。そのためパウロは旅に出発しようとしたとき、ミレトスにエフェソの教会の長老たちを呼び寄せ、エフェソの教会メンバーと祈りを共にし、その後、旅に出発しました。不安を覚えていたパウロが祈って欲しいと願い、エフェソ教会はパウロ先生が困難な地の伝道に赴くのだから、祈って送り出したいと願ったのです。パウロとエフェソの教会はそういう間柄でした。
 時折、ご紹介しますが、戦後間もない時期に国連の事務総長であったハマーショルドの日記「道しるべ」を読みますと、繰り返し、「孤独」を訴えています。使命に生きようとしたとき、孤独を覚えたのです。ハマーショルドは、第三者から見れば、献身的に世界の平和のために身を粉にして働いた人ですが、日記をていねいに読みますと、自分の重荷しか負っていないのではないか、と記し、そこからくる孤独を覚えています。ハマーショルドのためもっと祈る友がいたなら、あれほど孤独を覚えなくてもよかったのではなかったのではないか、と思わされます。
 パウロ自身、伝道者としての歩みでしばしば孤独を覚えたことでしょうが、パウロには背後で祈ってくれる教会がありました。とりわけエフェソの教会の祈りに支えられ、励まされて伝道者として歩み続けたのです。

   そうした祈りの交わりがあったエフェソの教会に、パウロが書き送ったのが、この手紙です。パウロと祈りの交わりを持っていた教会でしたが、エフェソの教会も一つになれない現実がありました。そこでパウロは、教会が一つ思いで歩んで欲しい、祈って欲しいという願いから、イエスさまは十字架の死を通して、敵意という隔ての壁を取り壊した、十字架によって敵意を滅ぼされた、あえていうなら、キリストはわたしたちの平和だ、教会は一つの霊によって結ばれた神の家族だ、そのことを知って欲しいと書き記したのです。すなわち、教会には、いつの時代にも、一つになれない現実がある、しかし、そうした私たちのためイエスさまは十字架の道を歩まれ、敵意という隔ての壁を取り壊してくださった、そのイエスさまがかなめ石となって聖なる神殿となっているのが教会だ、とパウロはいうのです。わたしたちは今、イエスさまの十字架の苦しみを覚えるレントの一日一日を過ごしているわけですが、パウロが、イエスさまが十字架の道を歩まれ、敵意を滅ぼした、このキリストによって一つの霊に結ばれて、誕生したのが教会だ、という言葉を重く受けとめたいと思います。
 3章の後半には、エフェソの教会のためのパウロの祈りが記されます。17節から19節にこうあります。
 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどあるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」
 パウロは、イエスさまは十字架に架かられ、敵意を滅ぼされた、それゆえ、エフェソの教会の皆さん、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者となって欲しい、そして教会の皆さんと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどかを知って、神さまの満ちあふれる豊かさのすべてあずかろうと切々と祈るのです。
 そして、先程読んで頂いた4章になるわけですが、1節から6節にこう記されています。
 「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」
 キリストの愛がこれほど大きい、このキリストが教会のかなめ石だ、その教会に連なる一人一人は高ぶってはいけない、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐しなさい、平和のきずなで結ばれ、霊による一致を保つように努めなさい、と勧め、さらに体は一つ、霊は一つ、一つの希望にあずかるよう   に、と招かれている、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、神さまはただお一人だ、というのです。このようにパウロは、エフェソの教会に、教会とは何かを語ろうとするときに、「愛」ということと「一つ」ということを繰り返すのです。
  この勧めに続けて、7節で「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と言うのです。すなわち、わたしたちは、霊によって一つとされ、一つの希望にあずかるようにと招かれている、キリストの愛はそれほどまでに広い、長い、高い、深い、そうした教会に連なる一人一人に恵みが与えられている、どの人にもそうだ、というのです。
  コリントの教会に宛てた手紙でも、パウロは、教会はキリストの体であり、一人一人はその部分、枝だと書いています。体のどの枝が大切で、どの枝は大切でないということはナンセンスなように、枝、一つ一つは同じ重みを持っています。そして、ここでも一つの体に結び合わせてくださるのは神さまであることが記されます。
 9節以下をていねいに学ぶ時間はありませんが、一人一人に与えられた恵みは異なるけれども、一人一人が与えられた恵みに感謝して歩む中で、愛に根ざして真理を語り、キリストの体を作り上げ、体全体が補い合い、しっかり組み合わされ、結び合わされ、体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくというのです。
 キリストの賜物に従って、わたしたち一人一人に恵みが与えられている、教会に連なる枝はどの枝も大切だ、ということを教会全体が共通理解にすると、愛に根ざして真理を語り、体全体が補い合い、愛によって造りあげられていくというのです。パウロが信じる教会はどういう教会かが示されています。

 先程、イザヤ書42章1節から4節を読んで頂きました。ここには、預言者が真の慰めをもたらす主のしもべ、すなわち来たらんとするメシアがどういう方かを歌っています。
 「主のしもべは大きな声を出さない、傷ついた葦を折らない、暗くなってゆく灯心を消さない、そういう姿勢で神さまの御心を遂行していく」というのです。
 パンフルートという楽器があります。葦を用いて作った笛です。昔、羊飼いが持っていた笛です。現代もあります。葦を束ね合わせたこの楽器は葦が痛むと不協和音が出ますので、傷める葦を抜いて新しい葦と取り替えます。ある牧師がこういうことを語っています。イエスさまが、パンフルートを吹くとき、葦が傷むと、傷んだ葦を取り出し修繕して、もう一度その葦をパンフルートに入れる、そしてきれいな音色を出すというのです。この傷める葦こそ、わたしたちである、暗くなってゆく灯心、ほのぐらい灯心こそ、私たちだ、と。

   私たちは3月11日の東日本大地震で、今までの価値観が音を立てて崩れるような経験をしています。
 1923年大正12年9月1日関東大震災が発生しました。9月1日は土曜日でした。私がかつて在任した秋田楢山教会は、震災当時の名称は、秋田メソジスト教会でした。当時の週報を調べて心を動かされました。9月2日の週報はあるのですが、9日の週報は発行されていません。どうしてかと思い、16日の週報を見ますと、救援活動のため発行できなかったというのです。そして教会としてすぐ228円を送ったとありました。教会の一年間の予算の三分の一です。実は、この関東大震災で東京の吉原という遊郭街で死んだ女性の多くが東北出身者だということが判明しました。東北には、貧しさのため娘を売らざるを得ない人々が多数いたのです。そうした東北の教会が関東大震災のため立ち上がったのです。その後、教会の婦人たちが中心になり市内の婦人たちに呼びかけ、千数百枚のわらぶとんを送ったこともわかりました。
 88年たった今日、東北で大きな地震と津波が発生しました。さらに首都圏の使用する電気のため造られた福島の原子力発電所が津波のため大きく損傷し、福島の人々は大変な状況です。
 パウロは、教会のどの枝も大切だ、一人一人に恵みが与えられている、そして教会ということでいうなら、東北の教会も、沖縄の教会も、首都圏にある教会も大切な枝なのです。一つ一つの教会に恵みが与えられているのです。
 私たちは、そのことを真に心に刻むために、この一年、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをもっと覚えたいと願っています。       


         (2011年 4月 3日 受難節第四主日礼拝)