2011. 3.13

「呻きつつ待ち望む」


ヨブ記14:13〜17  ローマの信徒への手紙8:18〜25

櫻井重宣

   一昨日の大地震の被害の大きさ、深刻さに私どもはうろたえています。津波で家族だけでなく家も土地も失い、途方に暮れている人々が多くおられます。 沿岸の地域では、町全体が壊滅しています。被災地の方々のことを思いますと、心が張り裂けるような思いです。私たちは、主よ、憐れんでください、主よ、助けてください、という祈りの言葉しか持ち合わせておりません。


 今、私たちは、深刻な苦しみを覚えていますが、ただ今お読み頂いたローマの信徒への手紙で、パウロは、現在、苦しんでいる、被造物は虚無に服している、被造物がすべて共に呻いている、と書き記しています。
  先週の水曜日から、私たちはイエスさまの十字架の苦しみを覚えるレントに入りました。ローマの信徒への手紙3章で、パウロは、キリストの十字架の死により、贖われたことを語りました。
 「キリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
 パウロがここで語るように、私たちはイエスさまの十字架の贖いによって罪を赦されたものです。イエスさまの十字架の贖いによって罪が赦された世界に生きる私たちです。そういうわたしたちですが、パウロが、現在、苦しんでいる、被造物は虚無に服している、共に呻いていると語ることに共感を覚えます。   
 パウロが繰り返し語ることは、全き救い、救いの完成は終りの時、イエスさまがもう一度おいでになるときだ、ということです。イエス・キリストの十字架の死によって贖われ、救いの完成を望んでいるわたしたちは終りの日まで苦しみつつ歩んでいかざるをえないのです。こうした苦しみの中で、キリスト者はどう生きるのか、すべての人、被造物の歩みはどうなのか、それを今日の箇所は語ります。


 もう一度冒頭の18節から20節をお読みします。
 「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望ももっています。」

  今、直面している苦しみはとてつもなく大きい、しかし、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと思う、とパウロは言うのです。しかし、それは決して今直面している苦しみが小さいからではありません。終わりのときに現される栄光は本当に大きい、そこに強調点があります。苦しみを抱えつつ生きるわたしたちに栄光が備えられている、そして、被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいる、といいます。
 「切に待ち望む」というのは、首を長くして切に待ち焦がれるという意味です。ですから、被造物が今、虚無に服していますが、爪先立つようにして、まだ見えないのに、はるかに遠くから首を長く伸ばして、神の子たちの現れるのを待ち望んでいるというのです。ここで、「神の子」の「子」は、原語で、息子と言う意のフュイオスです。
 また、被造物は虚無に服しているが、自分の意志によるものではない、服従させた方の意志による、と言います。ここ数日の大きな災害は、苦しんでいる人の意志ではないことはもちろんです。パウロは、服従させた方の意志による、と言います。これはこうした大きな災害を神さまが起こしたというより、私たちが謙遜にこの重い出来事を受けとめようとする姿勢です。
 それは21節からも明らかです。
 「つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。」

 すべての被造物が滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる、と言います。ここの神の子供は、テクノンです。テクノンは、一般的に「子供」という意味の語です。
 先立つ15節、16節で、パウロはこういうことを語りました。
 「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」

 わたしたちは、神の子、神のフュイオスとされる霊を受けた、この霊によって、わたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶ、この霊こそはわたしたちが神の子供であることを証ししているというのです。「神の子供」の「子供」は、原語でテクノンです。
 ですから、少し整理すると、わたしたちは、アッバ、父よと呼ぶ神の子供、テクノンである、終わりの時、神のフュイオス、息子とされる、虚無に服している被造物はその終りの時を待っている、その終りのとき、すべての人が神の子供、テクノンとされる、というのです。
 22節はこうです。
 「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」

  私たちだけが、この時代、目を覚まして苦しんでいるというのではありません。被造物すべてが共に呻いている、そのうめきは産みの苦しみだ、というのです。終りのときは、神の国、神の御心が天におけると同じように地になされるときです。明るいときです。幼子が産まれるときに、大きな喜びがあります。しかし、それに先立って産みの苦しみがあります。パウロは、今の苦しみは産みの苦しみだというのです。パウロは終りの時を、明るいとき、喜びの時としています。
 23節でパウロはこう語ります。
 「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」

  「神の子とされる」は、「養子とされる」という意味です。被造物だけでなく、わたしたちも体の贖われること、養子とされることを心の中で呻きながら待ち望んでいるというのです。パウロの目、そして、思いはいつもキリスト・イエスの日、終わりのときです。
  ですから、十字架の贖いによって義とされた私たちは、終わりの時まで苦しむのですが、終わりのとき、朽ちるべき身体が永遠のものとされる、その日に向かって希望をもって歩み続けようと、パウロは語るのです。
 最後の24節、25節にこう記されます。
  「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

  「忍耐」は、その下にとどまることです。5章で「苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことはありません」とパウロは語りました。ここでも、パウロは、わたしたちは目に見えないものを望んでいる、この苦しみの下にとどまって、忍耐して待ち望もう、というのです。


 私たちは、あらためてイエスさまのおっしゃったことを思い起こします。教会の入口に「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」という聖句が記されています。
 ここの「重荷」の原語は「フィルティオン」です。「フォルティオン」は、その人が生涯かけて負う重荷、使命、課題を意味する語です。イエスさまは、わたしたちを、フォルティオンを負う者として、もっというならフォルティオンを負うゆえに苦労するもの、疲れているものとしてごらんになり、そういうわたしたちを招いておられます。イエスさまは「柔和」な方です。柔和というのは、どんなに重くても、そのことのゆえに踏みつけられることがあっても、放りださないことです。それがイエスさまの柔和です。そしてイエスさまとくびきを共にするのですが、荷の重い方をイエスさまが担い、軽い方をわたしたちが担うというのです。ですから、私たちは、フォルティオンを生涯負い続けることができるのです。
 宗教改革から50年後に作られた第二スイス信条(1566年)には、地上の教会は、肉と世、罪と死との戦いを続ける、勝利する教会というのは、天上の教会の姿だと語ります。イエスさまは、一人でも苦しむ人がいる限り苦しんでおられる、そのイエスさまを主と告白する地上の教会も、一人でも苦しむ人がいる限り苦しみ続ける、地上の教会に栄光は、勝利はないというのです。


 私たちは、今、途方に暮れています。あまりにも深刻な事態に直面しています。けれども、終わりの時を呻きつつ、待ち望みたいと願うものです。ヨブはあまりの苦しさに神さまの御手が及ばない陰府に隠してください、と神さまにお願いしました。そうしたことをお願いしたヨブに示されたことは、その陰府で、神さまとわたしたちの間にあって執り成す仲保者が苦しむヨブのために祈っておられることでした。苦しみの底の底で祈っていてくださる仲保者の存在をヨブは知らされたのです。まさに、その方がイエスさまです。
  次回に学ぶ8章26節で、パウロは「霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」、と書き記しています。そうなのです。途方にくれる現実のただ中で、イエスさまが言葉にあらわせない切なるうめきをもって執り成してくださっているのです。わたしたちも呻きつつ執り成してくださっているイエスさまに励まされ、今、わたしたちが直面して大きな、大きな苦しみのただ中で、言葉にならなくても呻きつつ祈り続けたいと願っています。              


         (2011年 3月13日 受難節第一主日礼拝)