2010.11.14

「その罪をおおわれし人は、幸いなり」


詩編32:1〜5  ローマの信徒への手紙4:1〜12

櫻井重宣

   一人でも多くの人に神さまの愛を伝えたいというのは伝道者の切なる願いです。パウロはその願いを本当に強く持ち合わせていました。人生の半ばでイエスさまにお会いし、イエスさまを信じる人を迫害する人からイエスさまを宣べ伝える人になったパウロは、アンティオキア教会の祈りに励まされ、三度も伝道旅行を行いました。そのパウロが最後に願ったことは、未だ訪れたことのないローマに行くことでした。すでにローマには教会がありました。その教会の人々と恵みを分かち合い、そこからさらにイスパニアに行きたいという願いを持ったのです。パウロはこのローマ訪問に先立って、飢饉のため困難な状況下にあるエルサレムの人々に各地の教会から捧げられた献金をエルサレムに届けたいと思いました。しかし、イエスさまを迫害する人からイエスさまを宣べ伝える者になったパウロのエルサレム行きには身の危険が予測され、パウロが立ち寄る教会ではどこの教会も何とかエルサレム行きを思いとどまらせようとしたのですが、パウロはエルサレム行きを止めようとしませんでした。けれども、パウロの心の中に不安があったことは事実です。こうしたパウロが、まだ会ったことのないローマの教会の人々に祈って欲しい、祈って支えて欲しいという願いをもって書き記したのが、このローマの信徒への手紙です。ですから、パウロはあるいは途中で殉教し、ローマの教会の皆さんにお会いできないかもしれない、お会いした時、自分が皆さんにお話ししたいことはこういう内容だ、そういう思いでパウロは書き始めたので、パウロの書いた13通の手紙の中で、最も骨格のしっかりした手紙となったのです。
 私たちは、そうした意味でこのローマの信徒への手紙を学ぶとき、パウロの一人でも多くの人に神さまの愛をお伝えしたい、そういう思いを汲みながら学ぶことが大切です。

 最初に、このように申し上げたのは、パウロが今日の箇所に先立つ3章21節以下で、私たちが救われるのは、イエスさまの十字架による贖いによってである、神さまはキリストを私たちの罪を贖う供え物とされた、そのためわたしたちが救われるのは、この出来事にアーメンということであって律法を行っているとか、割礼を受けているとか、そういうことによってではない、ということを語りました。
 こうしたことを素直に聞くことのできない人々がいました。それは、ユダヤ人です。パウロは、そうしたユダヤ人の思いを良く理解できました。それは、自分もイエスさまにお会いする前、同じ思いを持っていたからです。今日学ぶ4章には、そうしたユダヤ人に何とか分かって欲しい、そういうパウロの思いがあります
 4章の1節を読んでみましょう。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。」
 先ず、パウロは、私たちユダヤ人はアブラハムを肉による自分たちの先祖としているが、それはどういうことなのだろか、というのです。
 2節を見ますと、 「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。」
 パウロは、1章18節〜3章20節で、正しい人はいない、すべての人間が罪人だということを語りました。アブラハムもそうなのだ、アブラハムといえ、正しさ、立派さがあって義とされたのではない、というのです。
 そして3節〜5節にはこう記されています。
 「聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、神の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」
 アブラハムが義とされたのは、なんの資格もない、誇るところのない、不信心なものを義とされる方を信じたからなのだ、いうのです。ここでパウロは「報酬」という言葉を用います。神さまとの関係でいえば、私たちが義とされたのは、報酬を受けたのではない、当然受け取るべきものを頂いたのではない、まったく価なく、いさおしのないものが受けたのだ、アブラハムもそうなのだ、というのです。大切なのは不信心な者を義とされる方にアーメンということなのです。
 私も何度か説教を聞きましたが、石島三郎という牧師がいました。石島先生は、ここでこういうことをおっしゃっています。「神は、われわれにたいして、義務も債務もおわない。救いは、人間のがわからの何ものかによるものではなく、ただまったく神からのたまものなのである。神は、不義なものを義とするという、ケタはずれのことをなしたもうかたである」と。
 アブラハムはこうした神さまがなしてくださったけたはずれの事を受け入れたのだ、とパウロは語るのです。

 6節〜8節で、パウロはダビデのことを語ります。
 「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
 『不法を赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。
  主から罪があると見なされない人は、幸いである。』」

 ダビデはユダヤの歴史で名君中の名君と言われた王様です。けれども、そのダビデも、神さまがなしてくださったけたはずれの恵みをアーメンと言った、というのです。7節と8節は詩編32の引用ですが、この詩の冒頭は、2行とも「幸いなるかな」です。イエスさまが山の上の説教で、幸いなるかな、こころの貧しきもの、幸いなるかな、悲しむもの、と語っておられますが、この詩も幸いなる、で始まっています。何が、幸いかといいますと、不法を赦され、罪を覆い隠された人々、主から罪があるとみなされない人です。正しい人、罪を犯さない人が幸いだ、というのではありません。

   9節〜12節では、アブラハムが信仰によって義とされたのは、割礼を受ける前だということを繰り返して語ります。アブラハム、そしてダビデは旧約の人です。イエスさまの誕生前の人です。神さまの愛が目に見える形で示されたのは、イエスさまによってですが、旧約の時代も新約の時代も神さまは御心をなしておられます。それだけに、パウロはアブラハム、ダビデ、そして自分も含め、だれ一人、救われる資格があったから、割礼を受けたから救われたのではなく、何のいさおしのないものに、神さまはけたはずれのことをしてくださったのだ、そのことをパウロはローマの教会の人々、とくにユダヤ人に対して切々と語ったのです。
 このように、ここでパウロは、アブラハム、ダビデ、そしてパウロの根底にあるもの、すなわち何のいさおしもないものにけたはずれのことをして下さった方に注目して欲しいというのです。

 今年の文化勲章を受章した衣服デザイナーの三宅一生さんがはじめて自分が広島で被爆したことを公にしたのは、昨年7月14日、オバマ大統領がプラハで核兵器のない世界をとの演説を聞いて、オバマ大統領に8月6日の平和記念式典に参加して欲しいという願いを、ニューヨークタイムズに寄稿した文においてです。三宅さんはこう記しました。
 「オバマ大統領が4月にプラハで行った演説の中で、核兵器のない世界を約束したことが、私が心の奥深くに埋もれさせていたもの、今日に至るまで自ら語ろうとしなかったものが、突き動かした。私は7歳のとき、ヒロシマで『あの日』を経験した。母は被爆の影響で3年もたたないうちに亡くなった。『あの日』のことを封印し、壊すのではなく、つくることへ、美や喜びを喚起してくれるものへ目を向けようとし、衣服デザインの道を志した。デザインはモダンで、人々に希望と喜びを届けるものだから。」
 すなわち、原子爆弾はすべてを破壊した。母を奪った、嘆きをもたらした、すべての希望を失望に変えた、自分は、あの日のことを封印し、壊すのではなく、つくることへ、美や喜びを喚起してくれるものへ目を向けようと、衣服デザインの道を志した、というのです。
 三宅さんが文化勲章を受章されたその日、バレリーナの森下洋子さんのメッセージが新聞に掲載されていました。森下さんも広島の方で、原爆が投下されて3年目にお生まれになりました。森下洋子さんの原点は、79歳で亡くなったおばあさんです。被爆し、枕元でお経を読まれた程ひどい傷を受けたそうです。そのおばあさんは79歳で亡くなるまで、恨み言一つ洩らさなかった、そして自分はそのおばあさんから命の重みと、苦しみを乗り越える人間の強さ、そして原爆はあってはならないということを無言のうちに教えられた、と森下さんは記しています。そして、森下さんは、「人間は美しいもの、素晴らしいものをつくる魂を持っています。それでいて、醜い戦争を引き起こし、核の力を人間を殺すために使ってしまう。日本も他国の人たちを苦しめた歴史があります。厳しいけいこを重ねながら精神の輝きを表現したいという原点には、一番身近な人から核兵器の恐ろしさを教えられたものとして、人間を愛することの大切さ、平和への祈りを伝えねばという思いがあります」と。
 一番身近な人から核兵器のおそろしさを教えられたものとして、人間を愛することの大切さ、平和への祈りを、踊りを通して伝えようとしているというのです。
 三宅さんのデザインの素晴らしさ、森下さんのバレーに心を動かす人が多いのですが、お二人の原点にあるそうした祈りになかなか思いを寄せる人は多くはいません。

   パウロがローマの信徒への手紙で伝えようとすることは、ユダヤの人々が信仰の父と呼ぶアブラハムも、ユダヤの国で最も優れた王とされるダビデ王も立派な人だ、けれども二人とも神の恵みによって立たされている人だ、ということを忘れてはならない、そして、その恵みはイエスさまを迫害したわたしにも、そしてこの手紙を読むあなたがたにも、世界のすべての人に注がれているのだ、というのです。
 三宅さんや森下さんは65年前の8月6日が原点となって、平和の大切さ、人間を愛することの大切さを証ししています。私は、三宅一生さんや森下洋子さんのことを思う時、私たちもそれだけの真剣さで神さまの愛を伝えていかねばと思う者です。とくに思いを深くさせられることは、65年前の被爆というつらい出来事を重く受けとめた三宅さんと森下さんが、つくること、美しいこと、愛することを全力をもって表現しようとしていることです。
 最近、私たちの教会が連なる日本基督教団は大きな危機に直面しています。自分たちの正しさを主張し、そうでない人を排除しようとしています。神さまが何のいさおしもない私たちに独り子イエスさまを贈ってくださるということはけたはずれの恵みです。この恵みを、感謝をもって重く受けとめ、交わりを壊すことではなく、造り出すことへ、神さまの愛を一人でも多くの方に証しすることへ、そのことに思いを深めなければならないことを思わされます。


         (2010年11月14日 主日礼拝説教)