2010. 8. 8

「神の真実は無にならない」


詩編51:3〜4  ローマの信徒への手紙3:1〜8

櫻井重宣

 昨日は9月11日でした。同時多発テロから9年目です。あの日、ニュ―ヨークから一時間ほど離れたプリントンという町にいた左近 豊という若い旧約学者がこういうことを書き記しています。
 「9月11日は火曜日でありましたので、その一週間は非常に長く感じました。学校のチャペルで毎日祈祷会が開かれ、悲しみの共同体が生まれました。-----
 そういう一週間を耐えて、深い哀しみに包まれて迎えた最初の日曜日、町中の教会は立錐の余地もないほどの会衆であふれました。そんなことはクリスマスかイースターにしかないことです。私たちは、あの日曜日の雰囲気は忘れられません。皆乾ききって命の水を喘ぎ求めるように緊張感が張り詰めていました。町全体、国全体が喪に服した、といってもいい空気でした。
  けれどもまもなく雰囲気ががらりと変わってゆくのを感じました。----まもなく哀しみを復讐へと転化し、傷を暴力によって癒そうとし始めたのです。----
 そしてごく一部の直接の被害者とその家族を除いては、遠い空にこだまする報復の銃声と燃え上がる復讐の炎に焼き尽くされる遠く離れた外国の町の様子に喝采を送るようになりました。」
 あの日から9年後の昨日、あの日の出来事を「リメンバー」、「忘れるな」と叫んで、イスラム社会への憎しみを持つ人々のデモが行われ、また、グランドゼロの地にモスクを建設する計画に反対の人と賛成の人のにらみあいがあり、さらに、アメリカのフロリダ州のテリー・ジョーンズ牧師がコーランを燃やすと宣言し、世界中の人々が心を痛める9年目の9月11日となりました。とりわけ、コーランを燃やす、というのは自分を絶対化し、相手を否定することですが、そのことを同じキリスト者、牧師としてどう受けとめたらよいのか、本当にとまどいを覚えさせられた一日となりました。 

 今、私たちが学んでいるローマの信徒への手紙を書き記したパウロは、イエスさまにお会いする前は、ジョーンズ牧師と同じように自分を絶対化する人でした。イエスさまを信じる人を迫害し、キリスト者だとわかると男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行していました。
 パウロがフィリピの教会に宛てて書き記した手紙に、パウロはこういうことを書いています。
 「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と。
 けれども、パウロはダマスコという町に行く途中、イエスさまに出会い、イエスさまを信じる者となり、それだけでなくイエスさまを宣べ伝える伝道者となりました。
 パウロはフィリピの教会に先程の続きにこう記します。
 「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです。そればかりか、わたしたちの主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」
 イエスさまという方は、私たちの罪を担って十字架の道を歩み、御自分の命と引き換えに私たちの罪を赦してくださった方です。パウロは、イエスさまにお会いし、自分を絶対化し、相対する人を否定する生き方を塵あくたと見なす生き方へと変えられたのです。
  ローマの信徒への手紙をていねいに読み進みますと、自分を絶対化する同胞のユダヤ人からパウロがいろいろと非難されています。しかし、今日、私たちは、イエスさまを宣べ伝える牧師がコーランを燃やせ、と主張するという現実の前に立たされ、苦悩しているのです。

  こうした苦悩を覚えつつ、先程お読み頂いたローマの信徒への手紙3章1節から8節に思いを深めたいと願っています。
 1節から4節前半をもう一度読んでみましょう。
 「では、ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か。それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉がゆだねられたのです。それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」
 ここで繰り返されている言葉があります。ピステューオ−という動詞とピスティスという名詞です。根っこは同じです。動詞は、信じる、委ねる、託する、名詞は信仰、誠実、信実と訳されます。
 今日の箇所で言うなら、2節の「ゆだねられた」、3節の二度の「不誠実」と「神の誠実」にピステューオー、ピスティスが用いられています。
 パウロの思いをお伝えすると、2章の後半で、割礼がある、律法があるということで、異邦人とは違うと自らを誇りとしていたユダヤ人に、本当にそうなのかと問いただしたパウロは、自らもユダヤ人ですので、今一度、ユダヤ人の優れた点を語ろうとします。
 パウロは、先ず、神の一つ一つの言葉、律法が委ねられた、託されたことだというのです。もう少しいうなら、神さまがユダヤ人を信頼し、神の言葉を託したのです。信仰、というと、私たちの側の姿勢と考えがちです。パウロは先ず神さまの私たちへの信頼、私たちの信頼、そのことを語るのです。
 それはこういうことだというのです。彼らのうち何人かが不誠実であったとき、彼らの不誠実が神の誠実を無にするのか、というと、決してそうではありません。「決してそうではない」は原語で「メ― ゲノイト」です。まさか、そんなことはありえない、という意味です。
 すなわち、パウロは、神さまはユダヤ人に対してどんなときにも誠実だ、真実だ、御自分を任せておられる、その誠実さは、だれかが神さまに対して誠実でないことがあったとしても、神さまの誠実さは無にされない、というのです。
 そして、人はすべて偽り者であるとしても、神さまはどんなときにも、どんなところでも、誰に対しても誠実な方だ、真実な方だ、そのことが明らかにされるように、というのです。

 4節の後半は旧約聖書の引用です。
 「『あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、裁きを受けるとき、勝利を得られる』と書いてあるとおりです。」
 これは、原文の意味合いはこうです。「それは、あなたの言葉においてあなたが義とされ、あなたが裁かれるとき、あなたが勝つためである、と書かれているとおりです」「あなた」は神さまです。神さまのことば、神さまの裁きが真実だ、と聖書が語っているというのです。
  これは詩編51の引用です。ダビデが王様になったとき、部下のウリヤの妻を宮殿に招き入れ、姦淫を犯しました。預言者ナタンはダビデのところにやってきて、ダビデにこういう話しをしました。
  「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、非常に多くの羊や牛を持っていた。もう一人は、貧しく、小羊一匹しか持っていなかったが、娘のようにかわいがっていた。あるとき、豊かな男の家にお客さんが来た。富める男は自分の牛や羊を惜しみ、貧しい男の羊を取り上げて、自分の客に振る舞った。」
 ダビデは、その話を聞くと激怒し、とんでもない、豊かな男は死罪だ、と言ったのです。ナタンは、すぐ、ダビデにその男はあなただ、と言ったのです。ダビデは、ナタンの指摘で自分の犯した大きな罪に気がつき、「わたしは主に罪を犯しました」と言って、祈った祈りが詩編51です。そしてその祈りで、ダビデは、神さまの言葉、裁きは正しいと告白するのです。

 5節以下をお読みします。
 ≪しかし、わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら、それに対して何と言うべきでしょう。人間の論法に従って言いますが、怒りを発する神は正しくないのですか。決してそうではない。もしそうだとしたら、どうして神は世をお裁きになることができましょう。またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光になるとすれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。それに、もしそうであれば、「善を生じるために悪をしよう」とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です。≫
 これは、パウロに対してなされた中傷です。頭だけの理屈です。パウロは、私たちの不義が神さまの義を明らかにするとしたら、わたしたちの不義に怒りを発する神さまは正しくないのか、という非難を受けたのです。ここでも、6節に「メ― ゲノイト」があります。パウロが強く否定していることが分かります。
 また、パウロは、もしわたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされ、神の栄光となるなら、どうして罪人として裁かれなければならないのかと言われたというのです。
 私たちはパウロが受ける中傷をていねいにみるとき、中傷する人々は、神さまは私たちが不信実だ、といってわたしたちにダメージを与え、自分だけが正しい、とされる方ではない、ということが理解出来できないことが分かります。神さまは、御自分の愛する独り子イエス様をどうしようもない弱さ、破れを持つわたしたちに与えてくださいました。そしてイエスさまは十字架の道を歩まれ、御自分が罪あるものとされ、わたしたちの罪を赦してくださったのです。
 イエスさまはすべての人を神さまの国に連れて行って御自分がいちばん最後に御国に入られる方です。そうしたイエスさまに従おうとするものが、自分を絶対化し、相対する人の存在を否定するようなことがあってはならないのです。
 イエスさまにお会いしたパウロは「使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」、「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と告白していることに思いを深めましょう。

                    (2010年9月 12日主日礼拝)