2010. 2. 7

「ひとりも滅びることなく」


イザヤ書52:12 使徒言行録27:27〜44

櫻井重宣

 
 三年間にわたって、使徒言行録の学びを続けて参りましたが、今日を含めてあと3回の日曜日で終わりになるかと思います。

 さて、使徒言行録の後半を学んで、心深く思わされることはパウロの伝道意欲です。三回も伝道旅行を繰り返し多くの人に福音を伝え、多くの町に教会を形作っています。そのパウロの最後の願いはローマに伝道し、さらに地の果てとされたイスパニアに伝道することでした。
 ところで、ローマで伝道したいと願っていたパウロが、エルサレムで逮捕されたのですが、囚人としてローマに向けて船出することになりました。けれどもパウロが乗った船が暴風に襲われてしまったのです。先回、学んだ27章の前半のところには、幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、だれもが助かる望みを持つことができなくなりました。そのとき、「元気を出しなさい」と言って船に乗り合わせていた276人を励まし、力づけたのがパウロでした。「船は失うが、だれ一人として命を失う者はない」ことを天使が自分に告げた、だから、元気を出そう、わたしたちは必ずどこかの島に打ち上げられるはずだ、と語ったのです。
 そして、今日の箇所になるわけですが、先程お読み頂いた27節と28節をもう一度お読みします。
 ≪十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。≫
 オルギィアというのは、長さの単位で1メートル85センチです。ですから水深20オルギィアというのは37メートルです。そしてどこかの島に近づいたことを感じ、もう少し進むと、15オルギィア、およそ27メートルだったというのです。そこで、29節を見ますと、≪船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた≫というのです。ここで「待ちわびた」と訳されている言葉は、「祈る」とも訳すことができる言葉です。今か今かと夜明けを待って祈っていた、待ち焦がれていたのです。
 こうした危機的な状況にあっても、自分が真っ先に助かりたいという思いが優先したのでしょうか、船員たちは逃げだそうとしたことが30節以下に記されています。
 ≪ところが、船員たちは船から逃げ出そうとして、船首から錨を降ろす振りをして小船を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、「あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない」と言った。そこで兵士たちは綱を断ち切って、小船を流れるにまかせた。≫
 船員たちがいなくなれば、航海に支障をきたします。それ以上にパウロは276人、全員が助かる、そのことを天使から聞いたので、船員たちの身勝手な行動をストップさせたのです。
 33節から38節は感動的です。
 ≪夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」。こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。≫
 パウロのここでの振る舞いの意味を276人の何人が理解したか分かりませんが、言い知れぬ感動をそこに居合わせた人々が覚えています。否、パウロ自ら、深いそして大きな感動を覚えつつこのことを行なっているのです。人間の集団の織り成す罪から嵐に直面したのですが、その嵐にもかかわらず、ひとりの人も失われないということをパウロは天使から聞いたことを証しするのです。一人も失われないという事実を支えるのは一人の人の死、すなわちイエス・キリストの十字架の死と復活です。そのことを思い起こしてパンを裂くのです。そして、その方が命を差し出してくださったので、髪の毛一本もなくなることはないと語ったのです。パウロの姿は、あたかもこの船に乗り合わせていた276人、一人一人の魂と命を配慮する牧師のようです。
 そして食事をした後、穀物を海に投げ捨てて船を軽くしました。
けれども、またまた大変な事態が起こりました。39節から41節です。
 ≪朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。≫
 船が浅瀬に乗り上げ、船尾は壊れだしたのです。このとき、兵士たちは囚人たちが逃げないように、殺そうとしました。42節以下にこうあります。 
 ≪兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして,全員が無事に上陸した。≫
 こうして船が暴風に襲われたのですが、船に乗り合わせていた276人全員が奇跡的に助かり、28章の冒頭に記されていますが、マルタ島に上陸したのです。この上陸の様子も心動かされます。泳げる者はまず泳いで陸に、泳げない人は板切れや乗組員につかまって陸を目指したというのです。泳げない者にも細心の心配りがなされています。もうこのときにはみんな心が一つになっています。276人全員が助かる、そのことをパウロから神さまの御心として伝えられた人々はひとりも滅びないよう細心の心配りをしながら上陸したのです。

 今日の箇所を読んで、深い思いにさせられるのは、パウロがパンを裂いて食べ始め、一同も元気づいて食事をしたという出来事の前後に、二つの出来事が記されていることです。
 一つは船員たちがどこかの陸地に近づいたことがわかったとき、小舟を降ろして逃げ出そうとしたことです。このときはパウロが百人隊長と兵士たちに進言して小舟の綱を断ち切りました。食事の前です。
 もう一つは食事の後ですが、浅瀬に船が乗り上げたときです。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、囚人たちを殺そうとしたことです。このときは、百人隊長がパウロを助けたいという思いで、囚人を殺させませんでした。  
 パウロが、天使に励まされ、船に乗り合わせている276人の命と魂のため祈り、パンを裂き、276人そろって上陸できるよう心を用いているのですが、一歩まちがえば、全員そろって上陸できないところでした。けれども、パウロが、私たちの主イエス・キリストが十字架の死を遂げ、よみがえられ、私たち一人一人に命を与えてくださった、そのイエス様がこの船に乗っている276人の命に責任を持ってくださるのだ、その方を信頼しようと語り、船に乗り合わせていた人々を必死に励ましたことによって、全員がマルタ島に上陸できたのです。

 先程、使徒言行録に先立って、もう一か所、イザヤ書52章12節を読んで頂きました。こう記されていました。
≪しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたがたの先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だから。≫ 
バビロンとの戦争に敗れ、四十年も五十年もバビロンで捕囚生活を余儀なくされていたイスラエルの民がエルサレムに戻るときのことです。ここを記した預言者はバビロンからエルサレムへ帰る旅のリーダーの一人と思われます。バビロンでの捕虜の生活が40年も50年も続いたので、エルサレムに帰る日を望みつつバビロンで生涯を終えた人もいることでしょう。エルサレムへ帰ることが許された多くの人々は年をとり、弱っていました。預言者はエルサレムへ帰ることをためらっている人々を、神様は先頭を進むと同時にしんがりをも守っておられるので大丈夫だ、急がなくていいというのです。あなたがたの神さまは、あなたがたの先頭に立って、ゴールを目指して下さる方であるが、それだけではなくしんがりに立って、落ちこぼれそうになる人、疲れた人、弱った人、年をとっている人、病気の人、どの人をも励まし、歩けなくなったらおんぶしてでもゴールを目指してくださるのだ、そして、そのリーダーは弱い人、病気の人を抱え込むとき、御自身はぼろぼろになる、けれども、どの人もおいてけぼりするようなことはなさらない方だというのです。
パウロがローマ行きの船に乗り、二週間近く暴風に悩まされたとき、神様の天使から示されたことは、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエス様が先頭にもしんがりにもいてくださる、だから船に乗り合わせている276人がひとりも滅びないのだ、ということであったのです。

 第二次大戦下、アウシュヴィッツの強制収容所で死の苦しみを経験したユダヤ人の心理学者、フランクルが『夜と霧』という著書の中でこんな経験を報告しています。
 一人の囚人仲間が倉庫に侵入してジャガイモを盗もうとし、それが発覚しました。侵入者を引き渡すか、それとも2500人の仲間が一日断食するか、選択を迫られたとき、仲間たちは断食することを選びとりました。ふだんの時でもわずかの食事しか与えられていなかったので、夕方になるとみんないらいらし始めました。囚人の代表は、囚人仲間がパニックにならないように、フランクルに何か話すように促しました。フランクルは自分もおなかがすいていますし、その上寒さのためふるえていたのですが、彼は先ず、今は極限状況だが希望を持つ根拠、すなわち家族がいる、仕事があると言いました。次に未来を語り、たとえ自分たちの5パーセントしか生き延びる可能性がなくても希望は捨てるべきではないと力説しました。そして過去のことを語りました。われわれが過去の生活で体験し、実現したものは、何人もわれわれから取り去ることはできないことを。そして人間の生命はいかなる事情の下でも意味を持つことを。さらに今、この時にも、誰かが、友が、家族がとりわけ妻が何よりも神がわれわれを見つめていることを。フランクルがこのように語ったとき、多くの仲間は目に涙をためて一心に聞きいっていたというのです。
 ジャガイモを盗んだ人の命を守るという尊厳な選択をしたのですが、おなかがすいてきてイライラし始めた2500人の人々を、だれかが、家族が、そして神さまがいまのこのときにも見つめておられることをフランクルが語ったとき、人々は落ち着きを取り戻したのです。


 使徒言行録を学ぶと、二千年前に誕生した最初の教会がどういう歩みをしたかを教えられます。今日の世界そして私たちの国は、276人が乗った船のように暴風に襲われ、太陽も星も見えず、希望を見出すことが困難な状況です。教会は、パウロのように神さまはこの世界を愛し、一人も滅びないように独り子イエス様をくださっていることを証し、一人一人のために祈り続ける群れでありたいと願うものです。


         (2010年2月7日 主日礼拝説教)