2010. 1.10

「神様の約束に希望をかける」


イザヤ書10:20〜23
使徒言行録26:1〜18

櫻井重宣

 
 新しい年、2010年を迎えて今日は2回目の日曜日です。御一緒に使徒言行録26章に耳を傾けたいと願っています。
さて、エルサレムで捕らえられたパウロはカイサリアに移され、二年以上にわたって監禁されていましたが、ローマの総督がフェリクスからフェストゥスに交替したこともあって裁判が行われ、パウロはその裁判で、ローマの皇帝カエサルに上訴しました。けれどもそれなりの罪状がなければならないので、フェストゥスが苦慮しているところにユダヤの王アグリッパと王の妹ベルニケがフェストゥスに敬意を表するためにやってきました。フェストゥスがパウロのことを話題にしたとき、アグリッパ王が、パウロの言うことを聞いてみたいと言ったので、その翌日盛装したアグリッパ王とベルニケ、そして千人隊長や町の主だった人々がいる謁見室にパウロは引き出されました。パウロはまるで見世物です。そのときアグリッパ王の前でパウロが弁明した内容が、今日の26章に記されています。

 見世物のように引き出されたパウロでしたが、アグリッパ王たちの前で誠実に弁明を始めました。先程は18節までお読み頂いたわけですが、少し先の28節を見ますと、アグリッパ王が「短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者にしてしまうつもりか」と言っています。そしてパウロも29節で「短い時間であろうと長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべての方が、私のようになってくださることを神に祈ります」と言っています。おもしろいものでも見るようにパウロの弁明を聞いていた人々に対して、パウロがイエス様のことを知って欲しい、と祈る思いで語っていたことが分かります。パウロがイエス様を証しするとき、こうした誠実な姿勢で語るのは、イエス・キリストという方は、御自分を迫害する者に対しても誠実に対応し、祈る方であったからです。愛をもって関わる方であったからです。そのイエス・キリストに出会って、180度方向を変化させられたパウロも、こんどは自分を見世物のように扱う人々に対して誠実に、祈りつつ、愛をもって関わるのです。

 先ずパウロはこう語ります。2節と3節です。
≪アグリッパ王よ、私がユダヤ人たちに訴えられていることすべてについて、今日、王の前で弁明させていただけるのは幸いであると思います。王は、ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです。それで、どうか忍耐をもって、私の申すことを聞いてくださるように、お願いいたします。≫
パウロは、自分は誠意をもって語る、王様も誠実に対応して欲しい、そのため忍耐して聞いて欲しいというのです。
4節と5節において、パウロは自分がどういうものか、ということを語ります。
≪さて、私の若いころからの生活が、同胞の間であれ、またエルサレムの中であれ、最初のころからどうであったかは、ユダヤ人ならだれでも知っています。彼らは以前から私を知っているのです。だから、私たちの宗教の中で一番厳格な派である、ファリサイ派の一員として私が生活していたことを、彼らは証言しようと思えば、証言できるのです。≫
 パウロは、自分はタルソスのユダヤ教徒の家庭に生まれ、若い時にすでにエルサレムで教育を受け、一番厳格なファリサイ派の一員として過ごしてきた、そういう自分であることはユダヤ人ならだれでも知っているというのです。
 そういう者がどうして逮捕、監禁され裁判にかけられるに至ったかを、6節から11節で語ります。
≪今、私がここに立って裁判を受けているのは、神が私たちの先祖にお与えになった約束の実現に、望みをかけているからです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕え、その約束の実現されることを望んでいます。王よ、私はこの希望を抱いているために、ユダヤ人から訴えられているのです。神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。実は、私自身も、あのナザレの人イエスの名に大いに反対すべきだと考えていました。そして、それをエルサレムで実行に移し、この私が祭司長たちから権限を受けて多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒?するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです。≫
 この弁明の後半、すなわち、パウロがイエス様を信じる人や教会を迫害したことは使徒言行録の学びでよく知っていますが、今朝とくに心に留めたいことは、この弁明の前半です。ここで、パウロは、ユダヤの十二部族の人がみんなそうであるように、神様はこの世界にメシア、救い主を送ってくださるという約束の実現に自分もまた望みをかけていたと語ります。
 これは旧約の民からいつも教えられることですが、旧約の民はどんなに絶望的な状況でも、メシアの到来を信じ、救いの到来を信じていました。先程、イザヤ書を読んで頂きました。救いの到来という希望を持つことがまったく困難な時代にイザヤが示されたことは、残りの者が帰ってくるという幻でした。そしてイザヤはさらに、切り倒された木の株から若枝が育つような形でメシアが到来すると語りました。旧約の民は、約束の実現に望みをかけていた、そして自分もそうだったとパウロは語るのです。
 そして、パウロは、長い間待ち望んでいたメシアが到来した、約束が実現した、その方はナザレ人イエスだ、そのナザレ人イエスは十字架上で殺された、けれども神様はイエス様を死者の中から復活させた、よみがえられたイエス様は神の右に座し、終りの日にもう一度おいでになる、終りの日まで執り成しておられる、それゆえ、終りの日にはすべての人が非のうちどころのないものとなる、この地に天におけると同じように御心がなされる、そいうかたちで神の国が到来する、そのことを望み見ているというのです。すなわち、終りのときにもう一度おいでになるイエス様は、十字架の死を遂げ、よみがえられたイエス様だ、その約束に望みをかけている。だから、神様の約束の実現ということの根本は、イエス様がよみがえられたということだ、そのことを信じるゆえ、自分は裁判にかけられているというのです。
 そしてかく言う私自身もナザレ人イエスに反対し、迫害していたことをパウロが語ったのです。
 そして12節以下に、すでに使徒言行録で3度目ですが、パウロは自分の回心のことを語ります。12節以下にこういうことが記されています。
パウロが、祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向かったとき、その途中、真昼でしたが、天からの光を見た、それは太陽より明るく輝いて、パウロとまた同行していた者との周りを照らした、パウロたちが皆地に倒れたとき、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけるとひどい目に遭う」と、ヘブライ語で語りかける声を聞いた、パウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、イエス様は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである、起き上がれ、自分の足で立て、あなたに現れたのは、あなたがわたしを見たこと、そして、これからわたしが示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである、と。
 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と言う天からの声を聞いたということをパウロは繰り返すのですが、「サウル、サウル」という天からの声がパウロの耳に焼き付いていたからです。あの天からの声を思い起こすたびに、イエス様だ、先生が私の名前を呼んでくださった、そのことを思い起こすのです。 
「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」というのは、若い牛が初めてくびきをつけられると、怒ってあばれるのですが、そのときとげのある鞭を用いる、というのです。それは、牛が暴れれば暴れるほど傷つき、このことを繰り返すなかで、くびきにつながれる従順さを学ぶという格言です。ですから、ここでパウロがイエス様から言われたことは、わたしを迫害すればするほど、わたしに引きつけられる、自分の生き方が問われる、わたしはそういうものだ、ということであったのです。くびきということでいうなら、イエス様が一緒にくびきを共にし、重い方を担ってくださることを知ることができたのです。
 そして、パウロは、イエス様から、起き上がりなさい、自分の足で立ちなさい、見たこと、示されたことの証人になりなさい、と言われたのです。
 そしてパウロの証しするのは、ユダヤ人も異邦人も、すべての人の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、主イエスへの信仰によって、罪の赦しを得、恵みにあずからせるようにするためだというのです。
 すなわち、自分の足で立つということは、どの人も闇ではない、光があなたを包んでいることを知らせ、サタンではなく神様の支配に立ち帰ろうと証しすることだ、そしてどの人も、イエス様の十字架による罪の赦しを与えられ、恵みを共にすることだというのです。

 実は、今日は礼拝に引き続いて、新しい年度、4月からの教会の歩みのため御心を問うための懇談会を予定しています。そうしたことがあるので、もう少し、今日の箇所に思いを深めたいのですが、旧約の民は、神様がこの世界を救ってくださるという約束の実現に望みをかけていた、新約の民は十字架の死を遂げ、よみがえられたイエス様が終りの時にもう一度おいでになり、そのとき天におけると同じように地に御心がなされる、その約束に望みをかけよう、とパウロが語っていることです。そして、そのことをパウロが語るとき、いちばん根っこにあるのは、イエス様がよみがえられたことを信じるかどうかということです。

   アウシュヴィッツを経験したヴィーゼルという作家がこういうお話を紹介しています。
 「ある年老いた賢人が子どもたちに出会い、こう言いました。『何が欲しいのか言ってごらん。』一人の子どもが言いました。『お菓子をちょうだい』『いいだろう』。もう一人が言いました。『お金を下さい、お菓子を買いますから。』そして、三人目が言いました。『力を下さい。そうしたら、お金も手に入れられるし、お菓子だって買える。』賢人はとても悲しくなりました。そこへ小さな小さな子どもがやってきて言いました。『希望をちょうだい。なくなっちゃったの』」
 子どもたちが、希望が無くなってしまったと言っている、そういう時代だとヴィーゼルは言うのです。
 旧約の預言者は、メシアの到来、新しい天と新しい地の幻を語ります。イザヤの望み見た世界は、戦争がない世界、家を建てた人、農業する人の労苦が無にならない世界、すなわち一人一人の労苦が報われる世界です。どんなに足元がぬかるみでも、そうした幻を持つか持たないか、ということは大きな違いがあります。そうした希望にかけました。
 パウロが書き記したコリントの教会に宛てた手紙を見ると、いろいろな破れ、醜さ、弱さのあった教会であるコリント教会にパウロは愛を語ります。愛は人と人との関わりを築く、建てるというのです。それだけでなく、最後にはイエス様のよみがえりを語ります。「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあってはあなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っている」というのです。
 宗教改革者のルターは、「たとえ明日この世界が滅びることを知っていても、私は、今日なおわたしはリンゴの苗木を植えるであろう」と語りました。神様の約束の実現を信じるがゆえに語りえたことです。 

 初代教会のあいさつは「マラナ・タ」です。「主よ、来てください」です。
聖餐式のときに歌う讃美歌の一つ、[讃美歌21]の81番の2節はこうです。
「主の十字架をおもい、主の復活をたたえ 
主のみ国を待ち望み、主にあってわれらは生きる マラナ・タ、マラナ・タ 主のみ国がきますように
マラナ・タ マラナ・タ 主のみ国がきますように」

 新しい年を迎え、歩み始めたわけですが、神様の約束の実現に望みをかけ、マラナ・タと祈りましょう。そして、自分の足で立ち、どの人にもイエス様が闇ではなく光を差し出しておられることを証しする一年でありたいと願っています。     

         (2010年1月10日 主日礼拝説教)