2019年4月

2017年 4月 会堂の花

 

牧師室の窓から  20194

井上良雄先生が「受難週の説教は、場合によっては、聖書の主の受難の記事を、ただ朗読するだけで終わってもよい」、とおっしゃっていたことを思い起こし、毎年四つの福音書のどれか一つを選んで、受難週からイースターまでの礼拝、祈祷会で耳を傾けています。今年はヨハネ福音書を取り上げ、棕梠の主日の礼拝ではヨハネ福音書122026、受難週祈祷会①ではヨハネ福音書18章、受難週祈祷会②ではヨハネ福音書19章、洗足木曜日聖餐礼拝ではヨハネ福音書122736、イースター礼拝ではヨハネ福音書21114に耳を傾けました。今年、わたしがとくに思いを深くさせられたのは、ヨハネ福音書1224節の「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」という御言葉でした。イエスさまが、数人のギリシャ人がお会いしたいとやってきたとき、心を動かされ、十字架の道へと歩み出そうとしたときの言葉です。イエスさまの死は、一粒の麦の死のように、静かな死でしたが、福音は今日多くの実を結んでいます。

 奥羽教区在任中に励まし合った中橋猛夫牧師は、30数年前に40代半ばで病のため召されました。中橋牧師が、伝道者として労苦したときに流す汗や涙が無になっているのでは、とわたしにつぶやき、呻いたことがあります。会堂と保育園建築で疲れていました。その後しばらくして、中橋牧師は、とてもうれしかったことがあった、と言ってこういうことを語ってくれました。    

先日、鍾乳洞に行った、ポタポタ流れている水が400年で3センチ伸びて大きな鍾乳石になっているという説明を聞いた、そのとき、自分はハッと思った、自分たちが生涯かけて伝道のため流す汗や涙も数ミリ伸びる、そのことを知ってとても慰められた、と。中橋牧師はそのことをわたしに語った数ヶ月後、急逝しました。一粒の麦となって死んで行ったイエスさまを宣べ伝えるものも、一粒の麦となって死んでいく、そのことにより二千年後の私たちに福音が伝えられているのです。

新しい年度2019年度の教会の歩みが始まりました。今年度はわたしたちの教会は祈る課題が多い一年となると思います。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ福音書1820)との御言葉に励まされ、祈ることを大切にしたいと願っています。